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竹中労さんに「放っておけば、消えてなくなる」と言われたアグネス・チャン

映画監督の鈴木清順さんの訃報が入ってきました。私は直接お話をしたことはありませんでしたが、竹中労さんがご存命の頃、竹中労さんも参加される月例のセミナー「風の会」のゲストとして登場した時に会場内にいてそのお姿およびお話を聞く機会を得ることができました。大変残念ではありますが、ご冥福をお祈りいたします。

さて、急に話は変わりますが、インターネットの文字によるコミュニケーションが多い方は「アスキーアート」という言葉をご存知の方も多いと思いますが、これは文字を構成する記号などを使って作った様々な絵のことで、文章のようにコピーペーストすればこのようなブログでも、掲示板でも見る人の環境さえ整っていればきれいに見ることができる表現の手段があります。その中の有名なものに、顔に青筋を立てた女性が引き戸をガラッと開けて怒鳴り込む直前のようなアスキーアートがあって、話題がいかにもアグネス・チャン氏が文句を言いそうだという場面に貼り付けられることが多くなっています。

彼女のデビュー当時はいかにも大人しく可愛らしい風だったのですが、アイドルを卒業して文化人としての路線転換を行なっている時期には、子育ての問題や児童ポルノの問題でそのあまりにもすごいと見ている人が思ってしまうようなテンションでテレビで発言する姿にインパクトがあったのでしょう。結果としてインターネットをやっている方なら多くの方がご存知のアスキーアートの主となってしまったのです。

今回、竹中労さんがこのアグネス・チャン氏に触れたダ・カーポの連載「テレビ観想」を読んでいると、それなりに芸能界で生き残っているアグネス・チャン氏について、人々はもう少し接する方法を違えても良かったのではないかとも思えてきます。というのも、現代においても、テレビに出続け話題にされ続けることによって生き永らえるようなポジションにいる方が多く、そうした人をこれ以上見たくないという風に思っていてもテレビの力はまだまだ強いので、完全に見たくない人を駆除できないという事があるかと思います。ここでは改めて当時の竹中労さんの書かれた内容を紹介することで、今後に向けてスルーする必要について考えてみたいと思います。

当時、アグネス・チャン氏は生まれたばかりの第一子を仕事場に連れてきたことで、子育て論争なるものが起きましたが、そうしてある程様文化人としての地位を確立したアグネス氏は、1989年1月に発行された自分の講演料について論じた講談社の「DAYS JAPAN」という雑誌に噛みつきました。

雑誌ではアグネス氏の講演料は一回につき約200万円だと報じたのですが、アグネス氏側は額が違うと主張しました。ただ個人的にびっくりしたのが、訂正してきた講演料の金額というのが、こちらも十分庶民感覚では高いと思われる100万円だったということでした。ですから、個人的には100万円でも200万円でも高い講演料だなと思う人が大半で、金額を間違ったとは言えそれほど大きな問題にはならないのではと思ったとたん、あまりのアグネス氏側の抗議により、DAYS JAPANは一時廃刊になったというのですから穏やかではありません。これはアグネス氏本人が抗議したからというよりも、テレビでの連日の放送による無言の圧力があったかも知れませんが、竹中労さんが指摘しているように、糾弾されるべきはアグネス氏や周辺の圧力ではなく、弱腰のまま廃刊を決めた講談社のだらしなさにあったと今となっては言えるかも知れません。

そうした「武勇伝」とともにアグネス氏はテレビ業界で力を付け、アイドルだったアグネス氏は完全に文化人としてのポジションを手に入れたと言えます。しかし、改めて思うのですが、多少テレビで顔が売れていると言っても、一回の公演をすれば収入が100万円というのはどれほど素晴しいお話をしてくれるのかと皮肉の一つも言いたくなるというものです。

かくいう竹中労さんも、アグネス氏の事について、以下のように紹介し、評価しています。

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・まずしい日本語をしゃべる、外国人タレント。という印象しか、ぼくは抱いたことがなかった。
・表現力よりも、心根において貧しいのである。したがって歌が下手ダ、現役の芸能記者時代でも、問題外のソトの人。当然、「子づれ」がどうのこうのと、詰まらない論争には我不関焉《われかんせず》。
(ダ・カーポ連載「テレビ観想」第19回より引用)
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この文章を竹中労さんが書いていた頃にはアグネス氏は渡辺プロダクションからの独立を果たし、彼女の夫が社長となる個人事務所を設立しています。となるとアグネス一家の命運は唯一のタレントであるアグネス・チャン氏一人の肩にかかってきたわけですから、どんな事をしても生き残らねばならない事情はあったのでしょうが、竹中労さんと同じように子育て論争を含めてどうでもいいと思っている人にとっては本当にどうでもいい事だったわけです。しかし、当時のテレビの力というのはアグネス氏を芸能界で延命させるような騒ぎ方をしていったのでした。

その後、児童虐待問題でアグネス氏がテレビで自論を展開する段になって、最初に紹介したアスキーアートになってしまうほど、アグネス氏は芸能界に確固たる地位を築いてしまったのでした。もし過去の騒動などで大騒ぎせずに、多くの人が無視を決めこんでいたら、もっと違った展開になっていたかも知れません。

このような事例は今後も多くテレビのワイドショーを賑わせることでしょうが、そうした人をやり過ごすためには、竹中労さんの書かれた言葉をもっと多くの人がかみしめて同じ事を何度も繰り返さない事が大事ではないかと思います。最後にその言葉を紹介しましょう。

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毒にも薬にもならぬ、アグネス・チャンふうが当世流、関節のゆるんだ八〇年代のアイドルであった。放っておけば、消えてなくなる。真剣に腹を立て、相手にすればするほど商売繁盛。
(ダ・カーポ連載「テレビ観想」第19回より引用)
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竹中労さんの芸能記者活動とそれ以降のものは何が違うのか?

竹中労さんがはじめにジャーナリストとして席を置いたのが、「東京毎夕新聞」という会社でした。そこでスキャンダラスな内容を含む記事を書いていく中での葛藤について、ちくま文庫「芸能人別帳」の巻末に掲載されている関川夏央氏による文章にその記載があります。文章の中に竹中労さんへのインタビューも掲載されていて、興味深い内容が紹介されています。

当時の「東京毎夕新聞」社主であった田中彰治氏は多くの不正の追求をしながらも相手の懐に入り込み、巧みに金をせしめるということを普通に行なっていました。竹中労さんが苦労してものにした身延山の山林汚職のルポも活字にならず、田中氏はそのルポを身延山への恐喝じみた集金の材料として使ったのだという事です。それが直接竹中労さんが東京毎夕新聞を辞めた理由なのだということを関川氏に話しています。

竹中労さんは自分の功名のため記事を新聞に載せてほしいと願ったものの、あくまで社主は記事の原稿というものをお金を取るための材料としか考えていなかったことで、自分の書いたものを活字で発表したいという気持ちから会社をやめて一時フリーになります。その後「女性自身」のライターとしてスカウトされることで多くの芸能記事を書いていくわけですが、その中の取材対象者であるタレントとの神経戦のような交渉の様子が同じ関川夏央氏の文章の中に紹介されていて、今の芸能ジャーナリズムとはちょっと違う印象を受けます。

芸能人というのは今も昔も芸能記者との関係において、自分の事を良く書いてくれる人に対しては愛想よくしゃべるものの、それをそのまま記事にしたところでコアなファンはまだしも多くの読者が興味を持って読んでくれる内容にはなかなかなりません。昔も今も誰と誰がひっついただとか結婚、離婚、一般人とのトラブル、薬物疑惑などの渦中にある芸能人に対しては、いくら本人が喋るのが嫌でも、何かその件に関するコメントを取り、そこをまとめた記事にすることで読者が食いつく記事になっていくわけです。

今の芸能ジャーナリズムは写真や動画、はたまたSNSの記述の一部をそのまま公開することで、最悪直接芸能人に取材できなくても、事実の核心を付いた面白い記事を書くことができます。しかし、その反面、記事を出した媒体と当事者である芸能人との関係は最悪となってしまいます。多くの出版者がかなりの訴訟を抱えているのもその理由でしょう。そこまでしてでも媒体が売れれば良いという理屈で、決して言い逃れがきかない動画や写真を入手する手間やお金(本人の友人や家族を抱き込んで提供させる場合)はかかりますが、とにかくこうだと方針を立てたらターゲットを追っていきさえすれば、かなり興味深い記事に仕上げることが可能です。今の世の中は活字媒体だけでなく、動画もスマホを使えばその場で見ることができるので、内容を見た人からすると記事の信憑性はさらに高まるということになります。

そうしたいわゆる「突撃型」の取材方法でなく、竹中労さんが使ったのは、さらに綿密な周辺取材を本人に会うまでにこなして行くことによって、記事に載せたい内容自体を本人もしくはマネージャーの了承を取って書くという方法でした。例えば芸能人夫妻の離婚の原因について書きたいと思った場合、離婚とは直接関係ない本人の家族に関する良くない話や、決して表には出したくないような自身の性癖のような、本人が突かれると最も痛い点を取材の上明らかにしておき、まだその事は出さないで、まず離婚問題でここまで書きたいという申し出をします。

その時点でも十分な当時者に対する説得を行ない、奥の手を出す前に相手が条件を飲めばそれはそれで良く、どうしても頑なに拒否された場合に奥の手を出します。例えば、2016年の末に薬物疑惑と性癖をいっぺんにバラされて発作的としか思えない芸能界引退を発表した某俳優の場合、もしその俳優としての芸に竹中労さんが惚れ込んでいたら、噂通り薬物をやっていたとしたら自らの取材でその内容を明らかにさせる代わりに、性癖の点については一切書かないから、本当の事を話してくれと説得するような形になるでしょうか。もちろんその後の活動についても関係各所を駈けずり回って、一時的には干されるにしても再登場できるような舞台を設けるところまでやると大見得を切るような事まで本人説得の材料として話すのではないかと私は思うのですが。もちろん、そうした事をするから金をよこせというような事もしないでしょう。

芸能人になりたい人というのは今も昔も多くいるので、一人の芸能人の去就など取るに足らないので、バッシングを受けるような事をやれば干されてそのままサヨナラになってしまっても仕方ないと思う考え方もありますが、世の中の全ての芸能ジャーナリズムがそうした考え一辺倒になるようでは、今活躍している人たちはいつ自分のところに来るかということが気になることで、一向にテレビや映画を見ていても面白くない人だけが生き残るということにもなっていくでしょう。

というか、そもそも今の芸能ジャーナリズムに「芸」というものを評価する素地があるのかということすら最近は疑問に思えます。真に磨かれた「芸」を持った人までスキャンダル取材で再起不能にするような芸能ジャーナリストがいたとしたら、その人は自分で自分の首を絞めているとしか私には思えません。叩くだけの価値のある芸能人がいなくなったらどうするのと、当時者に問うたら、それでも自分が生きている間だけこの業者が残っていればいいとでも言う人がいるかも知れないのが恐ろしいですが。