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竹中労さんがインターネットを使っていたら? その3 ネット荒しへの対応?

インターネットに関するいざこざというのは古くはパソコン通信の世界から存在し、実際に面と向かって話すのとは違い、匿名で発言できるだけでなく、感情の赴くままスマホから直に発信してしまう事ができるようになったことで、騒動の種は増えるにしても減ることはないでしょう。

インターネットにいくらかの意見を発表するにあたり、活字媒体しか広く世間に訴えることができる手段がなかった時代とは違い、誰でも自分の意見を発表することもできますし、そうした意見に対する反論を述べることもできるのですが、その反論の内容がどんなものかによってまともに回答しようと思うのか、ネットから反論をする人の多数がこんなものかとネットへの発信自体に幻滅するか、それは発信する人のネットというものへの認識によって変わってくるかとは思います。

これから紹介するのはネット上の事ではありませんが、元・現代の眼の編集長、丸山実氏が新たに起こした月刊誌「新雑誌X」を助けるために、原稿料なしでもと書かれたコラムの中の一つ、「音曲・風見鶏(ウェザーリポート)」で、竹中労さんのペンネームでもあった夢野京太郎名義で書かれたものです。

連載は2回目まで順調に進みましたが、その2回目の内容に異議を唱えるような読者からの投書がきっかけになり、夢野京太郎が執筆を降り、それを竹中労さんがとりなす形で第3回目が書かれたものの、以降「音曲・風見鶏」は復活することはありませんでした。個人的には竹中労さんの書く音楽コラムが読めなくなったことは大変なショックでしたが、あくまで「夢野京太郎」の筆という設定の読者を叱り飛ばす文章に、さらに竹中労さんに対する興味が生まれたのも確かでした。

では実際のところ、どんな投書があったのかと言いますと、改めて竹中労さんが紹介する投書の内容を見ていくと、現代のネットにおけるコメントでブログの元発言に対してご意見を挙げる内容に似ていて、「真梨邑ケイ、FTV深夜番組の司会をやってるコ、ジャズ・シンガーだったのねあれ」という夢野京太郎名義の文章に対しての反応がこんな風に返ってきたのです。

【FTV深夜番組というのは、「オールナイト・フジ」のことでそうだとすれば、司会をやってる女の子は、秋本奈緒美なるジャズシンガーです。ちなみに、彼女の歌は確かに未熟だが下手ではありません】

この投稿者が指摘するように、当時のフジテレビの深夜番組に出ていたジャズ・シンガーということになると、多くの人に知られていたのは「オールナイト・フジ」の秋本奈緒美さんであり、これはもしかしたら竹中労さんが勘違いをしたのかと私自身も思ったことは確かです。しかし、元の竹中労さんの文章を読めばおわかりの通り、竹中労さんは具体的な番組名を出しているわけではなく、単にFTV(フジテレビ)の番組としか表記していません。

ネットでもこうした微妙な言い回しに対して、「フジテレビの深夜番組とは「オールナイト・フジ」のことですか?」と聞くことをしないで、「あのおじさん、もうろくしてるのか秋本奈緒美と真梨邑ケイの区別が付かないでやんの」というように尖った反応をする人は少なからずいるでしょう。さらにひどいのになると、竹中労さんが左翼であることを言っていることに対して拒否反応を示し、アナーキストも日本共産党も赤軍も中核派や革マル派も、日教組も全て同じ穴のムジナだと思考停止をしたかのような糾弾を繰り返したりするかも知れません。

この投書に対して竹中労さんの書く夢野京太郎さんは案外きちっと反論しています。

「真梨邑ケイも以前に、FTVの深夜番組に出ていたことがある。調べもしないで、半可通なことを言うな。未熟はつまり下手、ヘタだが将来性はある・ということは間々あっても、未熟だが上手だということは断じて、ナイ」

今さらですが、ここで話題になった秋本奈緒美さんはどうなっているかというと、ジャズシンガーだったことを知っている人はいるかも知れませんが、今ではすっかり2時間サスペンスドラマでおなじみの女優さんとして活躍なさっています。真梨邑ケイさんについてもジャズシンガーの肩書は外してはいませんが、セクシー系を含む実に様々な女優としてのお仕事をしたり、週刊誌のグラビアを飾る仕事をしたりと、芸能界にそれぞれの居場所を探してその活躍は続いているものの、歌手として専業にすることはご自身の事を考えてあえてしなかったのではないかと思われます。それは彼女らの芸能界での生き残りを掛けた聡明さであり、非難されるものではありません。ただ当時ジャズ・シンガーとして人気が出て一時は活躍したとしても、その歌が本物かどうかをはっきりと断じた竹中労さんの耳の確かさを示す結果になっています。

さらに竹中労さんが穏やかながらも辛辣に読者に対して言い放った一言は、物書きとしての覚悟を発したという点において私の好きなフレーズです。

「[あら探し]なんてことは卑劣な精神の所産で、私・竹中労とても、そんな読者は必要ないと言い切るだろう。」

このケースでは薄っぺらい月刊誌である「新雑誌X」を当時としては高値の500円を出して買って読んでいる読者に対してもこの言い方だったわけですから、通信費は誰かが出しているとしても親に通信料を出してもらい実質的に無料で読んだ上にあら探しの卑劣な書き込みを連投する輩に対しては、その怒りは更に高まったのではないかと推察するのです。

というわけで、もし竹中労さんが今に生きていてブログを書きたいとおっしゃった場合、まずは雑誌に書いている以上に書いている内容についてアラ探しをしたり、書いている内容とは無関係な暴言を書く「荒らし」が来るかも知れないからとコメント欄を作らないことをおすすめすると思います。まあそれでもメールで投書してくる人はひっきりなしに出てくると思うので、そうした反論にもなっていない反論をご本人にそのまま見せたらブログ自体を投げ出してしまう恐れは多分にあるでしょう。それはそれで仕方がないとあきらめるのが普通ですが、とにかく粘り強くブログを書いてもらうようにお願いできるだけの人が周りにいるかどうかが竹中労さんがネットでの発信を続けられていたかどうかの分かれ目になったことは間違いなさそうです。