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過激派としての竹中労 その4 「湿った火薬に火をつけてみよう」竹中労さんの反論

「湿った火薬 小説革自連」が発表された1984年の4月17日に書かれた竹中労さんの文章があります。元々は丸山実氏が発行した月刊誌「新雑誌X」1984年6月号に掲載されたのち、単行本「人間を読む」(幸洋出版・1985年)に収録されている「湿った火薬に火をつけてみよう」という題名の付いた文章です。

人間を読む

まず最初に、竹中労さん自身の筆で、内容についてこれは違うと思われた点について言及されています。私自身も小説の中の登場人物・野上功は竹中労をモデルに書かれていると書きましたが、この野上功という人物はあくまで「作者にとってかくあるべき姿」に描かれているに過ぎないもので、断じて野上功は竹中労ではないとのこと。さらに、そこでは一般の人が感じがちな”無頼の伝説”に重ね合わせた性格にすることで、竹中労はこういう男だという印象操作が仕掛けられていることがあまりいい気はしないようで、竹中労さんはこうしたやり方を品の良くない手口だとバッサリ斬っています。

私自身は竹中労さんの姿というのは頻繁にテレビに出だした頃の時には好々爺とも映る姿しか直接は存じ上げませんが、実際に若かりし頃の竹中労さんの姿を見ていたわけではないので、こういった本があればその描写をそのまま竹中労はこんな人であったと信じてしまう人もいるでしょう。この辺の事情については、改めて当時関わりがあった方にお話を聞きたいところです。

さらに、前回紹介した映画「戒厳令の夜」のプロデューサーとなり、スポンサー企業が倒産した時期が実際にあった時とかなりずれているということは、すでにこの時点で竹中労さん自身が指摘していますし、竹中労さんの言う、革自連の運営から離れたわけについてもこの文章の中に説明があります。

当時の年譜を見ると、1977年の前の年にキネマ旬報での連載「日本映画縦断」を突然打ち切られたことで、翌1977年の6月に「キネマ旬報裁判」が始まっています。また同時期の年譜の記載には、週刊読売に連載していた「ヱライ人を斬る」に関する訴訟を和解という形で終了させています(年譜への記載はこちらの方が先)。この流れについては、竹中労さんは五木寛之氏から、「二つも裁判を抱えたら死んでしまいますよ」(幸洋出版「人間を読む」83ページより)と忠告されたことで先に週刊読売の裁判を終わらせ、本格的にキネマ旬報と戦うための準備をする中で革自連の運営からは手を引いたと説明しています。

そうした裁判闘争の中、革自連が出した候補者である俵萠子氏の応援演説に出掛けたというのは前回の紹介の通りで、さらに選挙カーに映画監督の大島渚氏と一緒に乗ったという話も書かれています。これらのことは、竹中労さんは運営からは手を引いたものの、運動から降りたつもりはなかったということの何よりの説明でしょう。

ここでさらに竹中労さんが書いていることで、本当ならひどいなと私が思うのは、「革自連」結成にいたるあらゆる資料は竹中サイドには届けられず、革自連における竹中労という存在が完全に抹消されていたということです(ウェキペディアの「革自連」の項にも竹中労さんの名前はこの文章を書いている時点では見付けることはできませんでした)。「湿った火薬」の中で著者が書かれているように、発起人の中に竹中労という名前があると協力してくれない人が出ると恐れたということはあったのでしょうが、いくら嫌な人物と思っても資料を送るくらいの度量が著者側にあった方が良かったのではないか(この辺は竹中労さんの書かれた内容にのっとって書いています)と思うのですが。

最後に改めて竹中労さんが本当に80年代始めまで共産党にいて革自連の内幕を密告していたのかという疑問については、「竹中労・無頼の哀しみ」の中で引用させていただいた部分だけ見ただけでは、矢崎氏の言葉は後出しジャンケンではないかという不信も拭い切れぬところもあります。著者の木村聖哉氏が竹中労さんが共産党にいたことを否定できない理由のひとつとして、「不破哲三は茶化すことはあっても、共産党を真正面から攻撃する文章は発表していない。」(「竹中労・無頼の哀しみ」142ページから引用)という記述がありました。

この理由について、書かれた時期が微妙な分答えになっているかどうかはわかりませんが、以下の文章を紹介しようと思います。先に引用した文章が載っているのと同じ「人間を読む」の中から、1983年6月「新雑誌X」創刊準備号に掲載された、一見三名の対談のようであるものの、実は竹中労さんが単独で全ての出席者の言葉を書いて対談風にまとめた読み物、「三酔人TV談語」の中から日本共産党を揶揄しているのではないかと思われる部分を紹介して、この項を終わりにしたいと思います。

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左太郎 これ(引用者注 NHKドラマ『おしん』のこと)はようするに、いま幸せであると言う話なのダ。昔は暗黒であった、人民は餓えていた、封建遺制のくびきに繋がれて、牛馬の扱いだった、大根メシだった。戦争を再びくりかえしてはならない、日本共産党に投票しましょう(爆笑)。
右兵衛 餓えなきゃ、戦争やってもよいのダ。
ご隠居 ”共に幸せを産み出す党”なんだってねえ。
一同 イッヒッヒ。
(「人間を読む」・三酔人TV談語・抄 186ページから引用)
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過激派としての竹中労 その3「湿った火薬 小説革自連」で描かれた竹中労さん

手元に「湿った火薬 小説革自連/中山千夏・矢崎泰久」の単行本があります。たまたまアマゾンで検索を掛けたら大変リーズナブルな価格で売りに出ていたので注文し、このエントリーを書くために一通り読ませていただきました。

湿った火薬

「革自連」とは「革新自由連合」の略で、1977年の参議院選挙で議席を獲得し、政界のキャスティングボードを握ることで、当時の自民党中心の政治状況をひっくり返すために組織された団体です。「湿った火薬」はその創成期の様子を描いた小説なのですが、竹中労さんは旗揚げの前からその運動に関わっていて、本の中でも「野上功」という名前で登場します。著者はそのあと書きの中で、この物語について以上のように書いています。

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これは、革自連の六年を生きた私たちが、その創成期の経験をもとに創作した物語だ。
(「湿った火薬」356Pから引用)
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ただ、前回にも紹介したように、竹中労さんの評伝「竹中労・無頼の哀しみ」で著作の木村聖哉氏は評伝を書くにあたって矢崎泰久氏に聞いた話として、「湿った火薬」について矢崎氏がこう言われたということをそのまま書かれています。

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「小説」と銘打っているが、矢崎さんの言によると、「書かれていることはほとんど真実」だという。
(「竹中労・無頼の哀しみ」113ページから引用
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出版物として出された時と、後日の話というとになると、当然後の方が矢崎氏の本音を述べていると捉えるべきでしょう。そこで、改めて「湿った火薬」の内容について読んでいくと、野上功という小説上の人物とは言いながら、竹中労さんとおぼしき人物は居丈高で自分勝手な「トップ屋」とでも言うべきアクの強いルポライターとして描かれています。

革自連を作って状況を変えるという思想自体は矢崎氏も共感するところはあるものの、野上が革自連に関わっているということがわかると、それだけで協力を取り付けられなくなる人が多く出る可能性があるとして(このあたりも胡散臭い人物としての描写につながる設定ですが)、革自連の構想を最初に話し合った作家の花田一水(五木寛之氏)とともに、革自連からの「野上はずし」が行なわれたとされる顛末についても書かれています。

その手段として提示されたのが、五木寛之氏の書かれた小説「戒厳令の夜」の映画化で、本文の記載に即した形で書くと、映画製作というオモチャを与えられた竹中労さんはやすやすとそれに飛び付いたとされています。

そこからしばらくは映画製作に没頭していたものの、正式に革自連が動き出し、十人の立候補者が発表されたのを受け、そのあまりの最初の構想からの変わりように腹を立て、革自連の事務を行なっていた矢崎氏とばばこういち氏を前にして、周りの迷惑顧みず二人を怒鳴りつける場面が出てきます。それは、単なる革自連の候補者が当初案とはかなりかけ離れた人選になってしまったからというわけではなく、自らの事情に関するやつ当たりも含まれていたと暴露されます。野上功が製作するはずの映画のスポンサーだった企業がその日に倒産して、映画製作が窮地に陥ったからだとその場に同席したことになっている白井佳夫氏の言葉を借りながら語られるのです。

この場面を読んだだけでは、参議院選挙とは関係ない映画製作という別件がうまく行かなかったことにかこつけてヒステリックに感情を爆発させたひどい人と思われても仕方がないでしょう。さらに前回のエントリーでも書きましたが、竹中労さんが1980年代前半までは日本共産党にいて革自連の情報を流していたということになれば、単にヒステリックに仲間の情報を「売った」裏切り者として、本当に「竹中労が関わるなら自分は降りる」という人が多数を占めるくらいに業界の嫌われ者となってしまっているのではないかという感想も出てこようと言うものです。

しかし、「書いてあることはほとんど事実」だとしても小説は小説です。そこでこの文章を書くにあたりネット上に挙がっている「竹中労・年譜」を改めて調べてみました。

http://y-terada.com/Takenaka/nenpu/NENPU.HTM

内容を詳しく見たい方は上記ページのリンクをたどっていただければいいと思うのですが、この年譜の原本は竹中労さんが亡くなった後に開催された「竹中労 別れの音楽会」に参加された方に主催者側から配られたパンフレットの中の年譜の記載をそのまま写したものです。年譜を作られた大村茂氏が故人となっているため改めてその内容についてお伺いすることはできませんが、この内容について参議院選挙の行なわれた1997年を中心に見ていくと、明らかに時系列がずれた事実があることがわかりました。

小説では革自連の候補者発表とほぼ時を同じくして野上功の映画スポンサーが倒産したことになっているのですが、「戒厳令の夜」のスポンサーだった株式会社マリンフーズが倒産したのは1979年になってからです。また、1977年は革自連から立候補した俵萌子氏の選挙応援をしたことも年譜には書いてあります。

というわけで、竹中労さんが激怒したのは多少は映画製作がうまく行っていなかったこともあったのかも知れませんがそれは決定的なものではなく、純粋に当初の計画から理念も候補者も変わってしまったことへの憤りだったのではないでしょうか。それでもなお、その怒りの標的となった革自連から立候補した候補についても、浮世の義理ではあるにしても応援演説に立ち、自分が言い出しっぺになった運動に対しても放り投げていないことがわかります。もしかしたら、そうした流れの中で竹中労さんが共産党の国会議員に革自連はもうダメだ的な事を言ったのかも知れませんが、私には竹中労さんがスパイのような真似をして逐次共産党員としての任務を全うしていたようにはとても思えません。この辺りの事については、今後竹中労さんの行なった事をいろいろ書いていく中で、読まれている方が判断していただくのが一番いいだろうと思います。

さらに、「湿った火薬」について竹中労さん自身が書かれた物があります。今回のような当時の事も良く知らない私よりも的確な反論が書かれていますので、次回はその原稿の内容について詳しく紹介させていただきたいと思います。


過激派としての竹中労 その2 竹中労さんはいつまで共産党に?

私がこの文章を書いているのは2016年で、竹中労さんがお亡くなりになってから25年が経っています。もし竹中労さんが同年に生きていたとしたらすでに80を超える高齢になっているので、直接古い時代からの竹中労さんを知っている人は確実に少なくなっています。

そんな中、どのようにして竹中労という人物の業績やその姿を知るかというと、評伝を読むというのがてっとり早いでしょう。過去にいくつもの評伝や人物研究の書物が出ていますが、今回紹介したいのはその中でも、現代書館の「竹中労・無頼の哀しみ」(木村聖哉・著 1999年)を取り上げます。というのもこの本の記述の中に、前回の最後に紹介した「竹中労さんが1980年代の始めまで共産党にいた」という事が書かれているのです。

竹中労・無頼の哀しみ

本の中味を紹介する前に、この木村聖哉氏がどんな人物であるかということを私がわかっている限りの知識で紹介します。この方とは実は私は直接お会いしたことがあって、それは竹中労さんが亡くなってすぐ、「別れの音楽会」という追悼イベントを企画することになり、当時の事務局だった石原優子さんが実行委員会を組む時に、そのメンバーとして招集された方のお一人です。生前の竹中労さんと雑誌「話の特集」で濃密な関係があった方であり、当時の私は下働きのスタッフとして資料の印刷などの雑用を任されていた縁もあって、実行委員会の席でお会いしました。実際にお会いした印象は実に物静かな方でしたが、この評伝を見るとわかりますが、単に竹中労さんに心酔していた当時の私とは全く違い、それなりに竹中労さんへの批判を込めたご意見もお持ちになっていたからこそ、なかなか書くのが難しいと思われる竹中労さんの評伝をお書きになれたのだと思います。

それでは、改めてこの評伝の中にある竹中労さんの共産党の在籍問題について書かれている所について紹介します。

(引用ここから)
先頃ある出版パーティで久しぶりに矢崎泰久さんと会った。その雑談中に「竹中さんはかなり後まで、おそらく八〇年代の初め頃まで共産党にいたらしいよ。だから革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」ど信じられないことを言う。
矢崎さんは話を面白くする癖があるので、”要注意”だが、共産党の某国会議員から直に聞いたそうだから、一笑に付すわけにはいくまい。
(竹中労・無頼の哀しみ 142ページから一部引用)

木村氏は「話の特集」編集長であった矢崎氏の発言を受けて竹中労さんの事を「やはり党派の人だったんだなぁ」と書くものの、本当にずっと後まで共産党にいたのかについての結論を出すことは避けています。周辺の人物に取材してこのような話があったという感じに書いているに過ぎないのですが、先日の山梨で行なわれた竹中労さんの没後25年のトークライブの席上でもこうした話があるということで紹介されていましたし、竹中労さんをよく知る人であればこその関心事であることに変わりはないでしょう。
木村氏がこの件の記述にかかる直前に、彼が東京代々木の共産党本部に出向き、公式に竹中労さんの党籍についてはどうなっているのか調べに行き、統制委員会の担当者に調べてもらったものの竹中労除名の記録はないということを紹介しています。

個人的な感想としては共産党というのはそれほどオープンに対応してくれるところなのかと思いましたが、書かれた内容を文字通りにとらえれば、ずっと共産党に名前が残っていたのかという風に考える人も出てくるわけですね。

ここで、竹中労さんが書く共産党との関わりについて書いておきますと、元々竹中労さんは共産党に入党して活動をしていました。年譜の中からそうした活動の部分を拾っていきますと、昭和22年17才の時に共産党に入党し、離党と復党をくりかえしながら、昭和36年・31才の時に「党を内部から改革しようとして」復党し、党の文化活動にあたります。その頃の目立った活動としては団地の自治会長になったり東映俳優労働組合を支援したり、大阪労音制作「大日本演歌党」(バーブ佐竹主演)を川内康範氏と共同演出したりしています。また、「美空ひばり」や「ビートルズレポート」もここまでの時代の作品です。

年譜の記載に従うと、その後の昭和42年(1967年)の映画・祇園祭のプロデューサーを降りた後の記載に、「日本共産党を「復党見込みなし」の除名。」とあります。ここからもし1980年代前半まで共産党員として活動しているとすると、日本共産党というところは実際は竹中労さんを除名せずに相当寛大に竹中労さんの活動を黙認していたのか、反対に、除名以前の問題だという事で、もう関係ない人だと処理もせずに放っておいたのかどちらかなのではないかと考えられます。竹中労さんが除名と書いている以上、竹中さんサイドから名簿から消せとわざわざ出掛けたこともないでしょうし。そうなるとここで改めて木村氏の本に出てくる矢崎泰久氏の発言を繰り返し検証してみることが必要になるでしょう。というのも、矢崎氏は木村氏に向けて、

「革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」

と言っていたことになっています。それが真実だとすると、竹中労さんは「革自連」についての情報を共産党に流し、選挙の時に共産党に有利になるような密告をしていたともとられかねませんが、それ以前にそもそも「革自連」って何? と思われる方もいるのではないかと思います。ということで、今回はここまでにして、次回は「革自連」についての話から入り、木村氏の本の中で矢崎氏が言ったとされる「革自連」内部の暴露小説「湿った火薬」の内容が全て真実なのかどうか、後に出た竹中労さんの反論文とともに紹介しながら考えてみたいと思います。


過激派としての竹中労 その1 私の竹中労初体験について

竹中労さんとはどんな事をやった人物かという事を考える中で、まず書いておきたいのは、私自身の竹中労初体験の思い出についてです。今から考えると、この体験の前にもテレビでそのお姿を見ていたとは思うのですが、今回紹介する署名記事を見た時には竹中労という名前と確かに小さい頃に見ていた記憶のあるテレビ番組「全日本歌謡選手権」の審査員という線は結び付きませんでした。あくまで「竹中労」というちょっと変わった名前と、書かれた文章によってのみ印象付けられた竹中労さんの肩書きが「過激派」というのが特に印象に残りました。

リベルタン創刊号

そんな竹中労さんの署名記事が掲載されていたのが、1982年8月に朝日ソノラマから出た雑誌「リベルタン」創刊号で、小池重明氏と升田幸三氏の将棋対局が目玉企画になっていたこともあり、将棋ファンの方はご存知かも知れません(この対局の様子については後に単行本や文庫になっています)。また坂本龍一氏と竹田賢一氏の対談も興味深いものでした。ただ、第2号が結局出ないまま終わってしまったのが残念でした。

なぜこんなことになってしまったのか、今となってはうかがい知ることはできませんが、創刊号の編集後記に編集長が「将棋に夢中になっているうちにいろんなものが入り込んでしまった」と嘆いていて、その一つに竹中労さんのコラムがあったのではないかと思えたりするのです。

というのも竹中労さん自身がコラムの中で、「そら、過激派の本音が出た」と、当時の自身の世間からの評判について自虐的に書いていますし、さらに同じ号にはあの鈴木邦男氏が新右翼団体である一水会の機関紙である「レコンキスタ」の紹介と称して、あからさまに若者よ民族派に来たれというようなアジ文をそのまま載せていたりしました。

1980年代の「過激派」というのは、当時の共産党のやり方に満足せず、より先鋭的に国内外での革命を目指す集団だとしての個人的な認識があり、一部の人から実際にテロを行ない世間を騒がせた過激派の親玉だと思われていた竹中労さんが、まともな媒体に文章を載せることは困難だったと思われます。そんな中、一応は名の通ったメジャーな出版社が出した雑誌に当時の竹中労さんの文章が載ることは、たまたまだっととは言え、自分の手に届いたというのはラッキーだったとしか言えません。

では実際、「リベルタン」に掲載された竹中労さんのコラムはどういう内容だったかと言いますと、過激な事は過激ではありましたが、当時全くの思想的に無垢だった私自身の心にも響いてくる反核運動にかこつけた当時の「左翼」に向けての批判でした(以下の引用は全て1982年8月、朝日ソノラマ「リベルタン」掲載の竹中労「異議あり!」からのものです)。

(ここから引用)
……「沖縄を返せ」「安保反対」「米帝は日中人民共同の敵」えとせとら・etc、シュプレヒコールはくりかえされ風化して、状況は変らない。いや確実に悪くなっていく。
(中略)
セーノと声をそろえりゃ世の中変るというおめでたい幻想、かくて社共統一・民主連合の亡霊はまたしてもよみがえる……
(引用ここまで)

この文章を改めて2016年という段階で読んでみると、ネットにあふれるいわゆる「ネトウヨ」が左翼を批判するロジックと同じように感じることができます。当時は、昔からの反対を連呼することに終始する左翼的活動に異を唱える知識人はそうそういなかったと思います。さらに、反核運動はどこに向かうべきかという点について、こんな指摘をしています。

(ここから引用)
言わずもがな、反核運動は具体的に反原発の闘争となる。何千万・億の署名よりも、一つの原子力発電所を破壊した方が有効である。
(引用ここまで)

この文の後で、「そら、過激派の本音が出た」というフレーズに続くのですが、当時は反核と反原発とは切り離した運動がされていたように思います。なぜなら、アニメ「鉄腕アトム」について、その存在自体を糾弾する人など皆無で、原子力を人間がコントロールして安全に使うことができるという事が広く信じられていた時代なのです。

そんな時代背景により、この発言をもって竹中労さんを「過激派だ」と一蹴してしまう人がいたからこそ、当時の竹中労さんは孤立して書く場を失なっていったと言えるわけですが、当時は画期的だと思った竹中労さんの考えというのも、まだまだその後の現実を見ていく中では甘かったと言わざるを得ません。もっとも、竹中労さんもさすがにメルトダウンを伴う大事故が起きれば日本の為政者や電力会社も原子力発電を止めるだろうと考えていたのでしょうが、原発再稼働どころか核武装まで真面目に考えている人たちが世間から大いなる支持を受けているわけですから、世の中が竹中労さんの考え以上に変わってきてしまっているということも言えるかと思います。

そんな中、このコラムの最後に、竹中労さん自らが「過激派」と呼ばれることになったきっかけについて記しています。

(引用ここから)
六五年、原爆スラムのルポルタージュを書いた。七〇年、朝鮮人被爆者を取材して一冊の本を編み、一本の記録映画を制作した(倭奴【ウエノム】へ――在韓被爆者無告の二十六年/日新報道&日本ドキュメンタリスト・ユニオン)。
この年から「左翼」にとっての異端と私は呼ばれ、過激派の黒幕と目されるようになった。
(引用ここまで)

さらにこのコラムの中で竹中労さんは、当時の革新勢力の人たちの事を”「革新を保守する」者”とも揶揄していますが、正に今、そうした人たちの長きに渡る行動が全ての左向きの人の行動を批判する中で「ネトウヨ」の攻撃基準になっているように私には思えて仕方ないのです。当時の左翼の方の中では、異端として切リ捨てたケースが多かったかも知れない竹中労さんの考えをもう少し真摯にくみ取っていれば、ここまでネトウヨから左と言うだけで集中砲火を受けるような状況にはならなかったのではと私には思えるのですが。

と、ここまで書いてきましたが、こうした竹中労さんの筆によるコラムが書かれていた80年代の初め頃まで、実は竹中労さんは日本共産党にいたという話があります。となると、今回紹介した文章はどう捉えた方がいいのか、全くわけがわからなくなってしまいます。今回はここまでにして、次回は竹中労さんがいつまで共産党にいて、党のために活動をしていたのかということについて、書物をひもときながら考えていきたいと思っています。