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竹中労さんが坂口安吾から受けた影響

竹中労さんは若い頃に「坂口安吾にしびれ」と書いていたことがあり、私自身も坂口安吾の本をよく読んでいたのでシンパシーを覚えたということがありますが、雑誌や単行本に書く文中でも坂口安吾氏の文章を引き合いに出すこともしばしばありました。そんな中、割と多く見掛けたものの中に有名なエッセイ「続堕落論」の中の一節があります。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。(中略)人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
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竹中労さんが政治を語る際に多く出てくるフレーズですが、どんなに政治家が新たな制度を作っても、その流れに乗れないあぶれ者はおり、そのあぶれた者の中から批判を浴びたりした場合、政治とは永遠の修正作業というところもあるので、そうした意見に耳を傾けながらそれなりに網を修繕し続けることができるのかということがいつの時代の政治にも問われていると、坂口安吾が指摘している部分です。安吾は、その復讐は誰がするかという点については、同じ「続堕落論」の中でこう書いています。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
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政治とは一定の距離を置いていたように思える坂口安吾がこのように書くのも、人間として良く生きるためにどうしたらいいのかと考える中で、単に社会制度を整備しただけでは人間の生活は良くならないと思うがゆえに、すぐには変えられない事はわかっていても問題点を挙げ、修正を繰り返すことによっていくらか「まし」なものに変えていこうとする政治に対しての援護射撃を文学がしていると思っているからこそです。よく、文学が生活の役に立つかという問いに対する安吾なりの意見であるとも言えるでしょう。

竹中労さんも革命家として本気で社会を変えようと様々な仕掛けをしたことも確かですが、革命は自分の目の黒いうちには無いだろうと思いつつも、社会に対する呼び掛けのような執筆活動はぎりぎりまで欠かしませんでした。自分と同じ志を持つ人を100人作ることができれば、その志はさらに多くの人に広まっていくのではないかというように、最終的には社会を変えることも考えながら発言をしていたのは引用させていただいた坂口安吾の文章にしびれたからだと言えなくもありません。

あと、坂口安吾と言えば、日本における天皇についての仕組みを多くの人にわかるように説明してくれた人物と評価することもできるでしょう。しかし、安吾自身は左翼というわけではなく、かと言って右翼でもなく、単に天皇制や当時の尾崎咢堂の「世界連邦論」を文学者としての立場から批判的に書いたに過ぎません。そして、その論理というのは現代にも通じる話として読むことができます。未読の方のために、少し長いですが日本人が歴代天皇とどのように関係を持っていたかを解き明かした部分を紹介しておきましょう。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜(ぼうとく)しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。
藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概おおむねそれを支持している。
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このような内容について、今なら「坂口安吾はアカヒの手先か」というような感想をもらす人も多く出てくるかも知れませんが、当時は左翼だけでなく右翼の若者にも安吾の文章は読まれていて、体制には反抗する「新右翼」の中でも原体験に安吾の文を挙げる方もいます。それが、朝日新聞社に乗り込んで自決するという人生の幕引きをした野村秋介氏でした。竹中労さんとの対談で安吾の事について語った部分がありますのでその部分も引用して紹介します。

新雑誌X 1983年11月号 「人物探検記 2」 野村秋介氏との対談から
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竹中:当時(引用者注 野村氏が二十才頃のこと)、どんな本を読んでたの?
野村:坂口安吾です、ね。『堕落論』とか、『不良少年とキリスト』なんか……
(中略)
竹中:やはり坂口安吾ですか!
野村:安吾のおかげで、「右翼」になったみたいなものです。
竹中:俺は安吾のおかげで”天皇制”のからくりが見えた(笑)。
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同じ人が書いた同じ本を読んでその内容にしびれ、しかし思想的には右と左に分かれていくという事がここでは語られています。だからこそ、同じ場で左右関係なく共闘することもできたということなのでしょうか。左でも右でも関係なく同じ世代で同じ価値感を共有するということは、今のネット世界にどっぷりと浸かっている人にはなかなか難しいかも知れませんが、そんな人には竹中労さんの文章もそうですが、坂口安吾の様々なエッセイも思想に関係なく読まれていって欲しいと個人的には思っています。