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竹中労さんの命日に寄せて

本日2017年5月19日は竹中労さんがお亡くなりになってからまる26年ということになります。その日に生まれた子が一端の社会人として活躍しているような年月が経ってしまったわけで、実際に竹中労さんをテレビでリアルタイムに見たり、実際に講演などを聞きに行ったりした人の中では、恐らく「たまの本」の読者の小学生あたりが最年少だと思いますので、少なくともアラフォー世代くらいにならないと直接竹中労さんの事を知らないということになります。

さすがにこのブログを読みに来て、竹中労さんのことを知らない方はいないと思いますが、なぜ竹中労さんは亡くなってかなりの年月が経った後でも今だに語られる人であるのかということについて、命日であるこの日に考えてみようと思います。

まずは、私がこのブログを立ち上げたコンセプトを見てもらえばおわかりかも知れませんが、この竹中労という人は一律に「こんな人だ」という風に割り切れないところがある人だということがあります。

「たまの本」で初めてその名前を知った人にとっては、単に深夜放送のグランドチャンピオンに過ぎなかった「たま」というバンドを、そのような音楽に理解があるとも思えない上岡龍太郎さんにまで「たまの本」を読むと番組内で言わせしめるほどの社会に対する影響力がある音楽プロデューサーとも音楽ジャーナリストとも思えたかも知れません。

ただ、竹中労さんが「たま」の事をプロデュースまがいに応援するようになったきっかけというのは、単に他の人と同じように深夜放送を見ていて、そこで見たことをもとにして雑誌「ダ・カーポ」の「テレビ観想」という連載に書いたことがきっかけになったに過ぎません。

ルポライターと初めに称したのが竹中労さんということで、今でも読まれる数多くの本があり、竹中労さんを物書きと思っている人もいるでしょうし、またある時は政治や社会に対して大きな色で物を言うコメンテーターであり、さらには過激派の黒幕と思っている方もいるでしょう。

竹中労さんはそうした様々な肩書を嫌い「よろず評判家」と自分の事を称しましたが、私がそうした竹中労さんの姿勢を見て思ったのは、自ら発信する言論人ではあるものの、その立ち位置としては決して上から目線ではなく、テレビを見たり音楽を聴いたり、新聞や雑誌を読んだりする人の側に立った立場で発言をしているということです。

話は「たま」の話に戻りますが、音楽プロデューサーと言えば、実際に作詞作曲をしたり演奏の経験があるなど、それなりの音楽に関わる経歴がなければ大きな声で物を言うのは難しいのではと思うのですが、ぱっと見どう考えても演奏家でも歌手でもない竹中労さんが技術論など関係なく「たま」の音楽性を賞賛し、世間の多くがそれに追随したのはなぜなのでしょう。それは、過去にインテリ左翼が「物笑いの種となる」と軽んじたと言われる美空ひばりさんを早くから絶賛し、あのビートルズについても、まだ海の物とも山の物ともつかないうちから評価し、それがどちらも素晴らしい音楽家であるという事が広く定着したからに他なりません。

つまり、音楽を楽しんでいる中でその評価をする場合、決して楽器ができなくても、人の前で唄を歌って評価を得なくても、優れた耳と感性さえあれば他人の意見に迎合することなく大きな声で主張することができるということを私に教えてくれました。

私自身音楽の専門家ではありませんが、自分の好きなものを好きだと声高に語らせていただけるのも、こうした先達の方がいらしたおかげです。さらに竹中労さんはその博識さで、音楽の話をしながらでもそれがいつの間にか社会全体の話としてまとめられ、時空をこえた形で全面展開される時の竹中労さんというのは、実に話が面白く、その内容は今もYouTubeで見ることができます。

そんな竹中労さんの素養の中で私が大変羨ましいのが、経歴の中でいつ勉強したのかと思われる漢文に関する知識です。最近読んでいる「にゃんにゃん共和国」の中でも中国の漢詩の一節から現代にも通じる道理を導き出すような記述が見られますし、こうした竹中労さんの書いたものを読むだけでも、現代の私たちにも漢文の知識および中国の古典を学ぶことの意義というものを感じるわけですが、最近の中国と日本の関係の中で本来は関係ないはずの優れた中国の古典を学ぶ必要なしと切り捨てる方もいて、そんなニュースに触れるたびに竹中労さんの文章を逆に思い出したりしてしまいます。

竹中労さんは常々、「状況分析は悲観的に、運動方針は楽観的に」ということをおっしゃっていましたが、まさに未来を展望する中において、こうした状況分析と運動方針について考えつつ、今いるところから少しでも進んでいく努力をすることが必要であるなと思います。このようなブログでも、確実に書く内容について好きなことは書けないようになっていくのかも知れませんが、自分で書きたいことを制限のある中でいかに表現していくかということも考えながら、今後もブログを更新していこうと思っています。毎日更新するようなブログではありませんが、今後ともどうぞよろしくお願いします。


「にゃんにゃん共和国」を読む その2 66匹に増えた猫を養うため山を降りる?

竹中労さんの著作を読まれている人にとって、その生活における猫の比重はどのくらいのものであったかというのは、このルポに登場する「にゃんにゃん共和国」でネコの世話をしている方や、オンタイムで「猫の手帖」を読んでいるかしない限り、実感できなかったのではないかと思っています。

ともかく、ルポの内容を読んで行くと、急に屋根裏に入ったと思ったらいきなり出産することを繰り返すネコの話も出てくるので、竹中労さんのサイドで去勢手術などしないで飼っていることも類推されます。そんな風に多産系のネコが子を産んで増え、さらに前回のルポで「箱根の猫屋敷と言えばタクシーですぐに行ける」などと書き、さらには大体の住居の場所も匂わせているものだから、あえて竹中労さんの自宅にネコを捨てに来る輩も出てきたりして、第2回の冒頭から、にゃんにゃん共和国は前回より10匹も増えた66匹のさらなる大所帯になったことが書かれています。

相変わらず家にやっては来てもなじめないで脱走するネコの捕獲に人員が割かれるも、エサ代も捻出せねばならず、さらにはにゃんにゃん共和国管理人として、仕事をしながらも共和国在住のネコたちの機嫌も取り結んでいかなければならない(管理人としては共和国住人のネコに無視されたくないから?)となれば、当然のごとく仕事にならず原稿料も出ないのでたちまち共和国崩壊の危機に陥り、竹中労さんは山を降りて仕事中心の生活をしなければならなかったということになります。さらに言うと、ネコにとっては一番の苦手である冬の寒さによって風邪をひくと、これもまた費用のかかる動物病院のお世話になることで、竹中労事務所の負担は更に増えていくことへの嘆きも書かれています。箱根で暮らす竹中労さんにとって秋から冬へと変わる季節というのはまさしく魔の季節だったということでしょう。

ただ連載の方はそうした当時の状況とは別に、個別のネコについての紹介もあります。ただ66匹もいると、皆従順なわけでもなく、仕事をしてネコのエサ代を捻出しなければならない身からするとうんざりすることもあると言います。しかし竹中労さんはこうも書いています。

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ズッコッコ(共和国在住のネコの一匹の名前)の場合は、いささか痛ましくすら思え、とりわけ深夜に咆哮されると、カンシャクと不愍(ふびん)がいっしょにこみ上げてきて、いたたまれなくなるのだ。六十六匹もいる中には、こういう頭の煮えたやつがいて当然、「にゃんにゃん共和国」のそれは一つの与件なのである。
(猫の手帖2号 1978年12月)
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この内容をネコのコロニー内だけのことと考えてはいけません。人が集まる中でも同じように気の合う人もいれば見ただけでムカつく人もいます。そんな中共同生活をしていくためには上記の竹中労さんのような大いなる寛容さも必要になってくるというわけです。

私たちの生きる社会においても、中には肉体や精神に問題があり、なかなか社会になじめない人達もいるわけですが、そうした人を排除して仲間内だけで固まって共同体を作ったとしても、その小さな共同体の中でまた問題が起こってくることは間違いないでしょう。実際に自分の中で軽蔑することもあるかもしれませんが、その上で理解しようと努めることもまた共同体を構築するためには必要なことなのです。

このように、当初全く懐かないようなネコを辛抱強く接しているうちに馴染んでくる様子を猫キチ目線で描いている部分についてはぜひ実際に竹中労さんの文章にあたって欲しいですが、さらにここで革命家の面目躍如と言いますか、ここで更に「ネコのための革命」論を全面展開するのです。現状では目下の66匹のネコの生命を守るために山を降りて仕事をすることになるものの、日本全国、全世界の捨てられたり虐待されているネコのためにも革命を起こさねばならぬというわけです。

現代のペット事情というのほ当時とはかなり変わり、昔のように当たりかまわず犬やネコを捨てるような事は見なくなりました。しかし、今だに野良犬や野良猫を虐待する人はいますし、広場で暮らすノラネコに無断でエサをやることが問題になるなど、解決しなければならない事は数多くあるでしょう。人間とネコが共存して暮らしてゆくためにはやはり人間の社会を変えていくことが不可決であると竹中労さんは教えてくれています。