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「にゃんにゃん共和国」を読む その3 俳諧的なものへの反感

この回の書き初めは、なぜか松尾芭蕉の一句から始まります。学生の頃に書いた作品鑑賞の内容をめぐり、正解ではないとされた独自の解釈により出した結論は、高尚とされた俳諧精神への反逆でした。

(ここから引用)
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芭蕉というやつはろくなもんじゃない、何が神明の加護あるべしだ!(「一家に遊女も寝たり萩と月」と詠んだ句の中で出てくる同宿した二人の遊女に同行を頼まれて断ったくだりでの話)かくて俳諧精神なるものに、少年は大いなる反感をいだいた。
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(引用ここまで)

こんな風に、素直に「にゃんにゃん共和国」の住ネコの紹介から始まらないのは、50匹以上の猫達(執筆時には58匹)と同居することによって起こる、シャレにならないエピソードの数々にさすがの竹中労さんも気が重くなったからでしょう。子供を産んだばかりの親猫が、子供が育たないと判断してその子の命を絶ってしまうという本能を人の手によって助けられなかったり、元気な若い猫が急にいなくなったと思ったら、鉄道軌道に入り込んで絶命してしまったり、不妊手術を受けさせようと思っている時に他人の家まで出張してすぐまた妊娠して子猫を産んでしまうという雌猫が起こす状況への嘆き、さらにその猫が他所様の家の中で子を産んだ猫が掛け軸の表装を破ってしまい、それを元通りにするための金銭的負担が出たことなど、原稿を書いてお金を捻出するしかない当時の竹中労さんとしては、じくじたる想いがあったことでしょう。

もっと言うと、当時は映画「戒厳令の夜」プロデューサーとして莫大な資金を捻出しなければならなかった時期も重なり、とても本連載の原稿料だけでは共和国の猫達を扶養することはできない中で、かなり重苦しい状況が伝わってきます。そこで最初の芭蕉の句に戻るわけですが、句に詠まれた遊女たちは芭蕉に女二人で伊勢を目指す旅をするのは大変に心細いので(芭蕉が泊まった宿までは道案内をしてくれる人がいたのですが、宿からの旅は二人だけの道行となるため)、何とか芭蕉たちの一行に加わらせてくれないかという切羽詰まった願いを述べたのですが、芭蕉はその願いを断ったことも含めてそこまでの状況を記録し、さらにその日の想いを詠んだ一句を今の世にまで残したというわけです。

もちろん、芭蕉が書き残したからこそ私たちは当時の様子や芭蕉の句を鑑賞できるわけですが、当時の遊女といえば身分としてはかなり低い存在だったわけで、そうした人を見捨てるかのような(もちろん断わった理由はちゃんとあったという解釈はあっていいとは思いますが)、芭蕉を当時の世間と比較してまさに”人情紙風船”というようなやるせなさを感じていたのではないかと想像することができます。

この連載は「猫の手帖」という猫を愛する人が好んで買って読む雑誌に書かれたものであるため、共和国に暮らす一匹一匹の猫について細かく記される様子というのは好評であったろうと思われますが、細かいそれぞれの猫のエピソードについてまではここで紹介することはできないことは申し訳ないと思います。ただ、今こうした竹中労さんの箱根にある猫屋敷の生活をひもといてみると、今も昔も一人の理想だけではどうにもならない状況というものは存在すると思えてしまうのです。

今回の文中の最後に、竹中労さんがこの連載を読んだ読書から匿名でのキャットフードの支援に素直に感謝するという一文に加えて、どうか匿名にしないで送ってくれ、いつかはお礼をする気はあるという事も書いています。この後の共和国の動向を考えるに、ちょっと気になる記述なのですが、その結末はまた改めて紹介します。前回から少し間が空いてしまいましたが、最後まで続けて紹介しますのでよろしくお願いします。


「にゃんにゃん共和国」を読む その2 66匹に増えた猫を養うため山を降りる?

竹中労さんの著作を読まれている人にとって、その生活における猫の比重はどのくらいのものであったかというのは、このルポに登場する「にゃんにゃん共和国」でネコの世話をしている方や、オンタイムで「猫の手帖」を読んでいるかしない限り、実感できなかったのではないかと思っています。

ともかく、ルポの内容を読んで行くと、急に屋根裏に入ったと思ったらいきなり出産することを繰り返すネコの話も出てくるので、竹中労さんのサイドで去勢手術などしないで飼っていることも類推されます。そんな風に多産系のネコが子を産んで増え、さらに前回のルポで「箱根の猫屋敷と言えばタクシーですぐに行ける」などと書き、さらには大体の住居の場所も匂わせているものだから、あえて竹中労さんの自宅にネコを捨てに来る輩も出てきたりして、第2回の冒頭から、にゃんにゃん共和国は前回より10匹も増えた66匹のさらなる大所帯になったことが書かれています。

相変わらず家にやっては来てもなじめないで脱走するネコの捕獲に人員が割かれるも、エサ代も捻出せねばならず、さらにはにゃんにゃん共和国管理人として、仕事をしながらも共和国在住のネコたちの機嫌も取り結んでいかなければならない(管理人としては共和国住人のネコに無視されたくないから?)となれば、当然のごとく仕事にならず原稿料も出ないのでたちまち共和国崩壊の危機に陥り、竹中労さんは山を降りて仕事中心の生活をしなければならなかったということになります。さらに言うと、ネコにとっては一番の苦手である冬の寒さによって風邪をひくと、これもまた費用のかかる動物病院のお世話になることで、竹中労事務所の負担は更に増えていくことへの嘆きも書かれています。箱根で暮らす竹中労さんにとって秋から冬へと変わる季節というのはまさしく魔の季節だったということでしょう。

ただ連載の方はそうした当時の状況とは別に、個別のネコについての紹介もあります。ただ66匹もいると、皆従順なわけでもなく、仕事をしてネコのエサ代を捻出しなければならない身からするとうんざりすることもあると言います。しかし竹中労さんはこうも書いています。

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ズッコッコ(共和国在住のネコの一匹の名前)の場合は、いささか痛ましくすら思え、とりわけ深夜に咆哮されると、カンシャクと不愍(ふびん)がいっしょにこみ上げてきて、いたたまれなくなるのだ。六十六匹もいる中には、こういう頭の煮えたやつがいて当然、「にゃんにゃん共和国」のそれは一つの与件なのである。
(猫の手帖2号 1978年12月)
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この内容をネコのコロニー内だけのことと考えてはいけません。人が集まる中でも同じように気の合う人もいれば見ただけでムカつく人もいます。そんな中共同生活をしていくためには上記の竹中労さんのような大いなる寛容さも必要になってくるというわけです。

私たちの生きる社会においても、中には肉体や精神に問題があり、なかなか社会になじめない人達もいるわけですが、そうした人を排除して仲間内だけで固まって共同体を作ったとしても、その小さな共同体の中でまた問題が起こってくることは間違いないでしょう。実際に自分の中で軽蔑することもあるかもしれませんが、その上で理解しようと努めることもまた共同体を構築するためには必要なことなのです。

このように、当初全く懐かないようなネコを辛抱強く接しているうちに馴染んでくる様子を猫キチ目線で描いている部分についてはぜひ実際に竹中労さんの文章にあたって欲しいですが、さらにここで革命家の面目躍如と言いますか、ここで更に「ネコのための革命」論を全面展開するのです。現状では目下の66匹のネコの生命を守るために山を降りて仕事をすることになるものの、日本全国、全世界の捨てられたり虐待されているネコのためにも革命を起こさねばならぬというわけです。

現代のペット事情というのほ当時とはかなり変わり、昔のように当たりかまわず犬やネコを捨てるような事は見なくなりました。しかし、今だに野良犬や野良猫を虐待する人はいますし、広場で暮らすノラネコに無断でエサをやることが問題になるなど、解決しなければならない事は数多くあるでしょう。人間とネコが共存して暮らしてゆくためにはやはり人間の社会を変えていくことが不可決であると竹中労さんは教えてくれています。


「にゃんにゃん共和国」を読む その1 56匹の猫と箱根で暮らす?

竹中労さんが猫好きだったということは猫と戯れる様子の写真から広く知られているとは思うのですが、箱根町宮城野に居を構えてから、「にゃんにゃん共和国」と称した猫のコロニーがあったことを知っている人は、特に新たに竹中労さんのことを知った方にとってはちょっとびっくりする事かも知れません。1978年8月に原稿が書かれた「猫の手帖」1978.10の第一回目の連載には、同年8月現在には総勢56匹という「猫系図」が紹介されています。

なおこの「猫系図」については隔月刊の雑誌発売時にどんな変化があるかということで、連載の中には必ず1ページを使って紹介されています。なぜこんなに多くの猫が竹中労さんと一緒に暮らしているかというと、元からいる猫が子どもを産むこともあるのですが、ノラの子猫を保護してきたり、竹中宅が猫屋敷だと言うことを知ってのことだろうと思うのですが、何の愛情もなく捨てていく不逞の輩が残していった猫も引きうけているからなのであります。

第一回目の「猫たちに無限の自由を!」にも、そうした人間の動物愛護精神のかけらもない、ひどい猫の捨て方に言及しています。無抵抗の子猫を自ら逃げ出すことができないように箱に紐を付け、ゴミ捨て場に放置していたものを、6匹のうちそれでも何とか2匹の命を取り留めることに成功するのですが、このようにして竹中宅にやってくる猫がいて50匹以上に増えてしまったのでした。

最近では動物愛護法に抵触する行為をしたことがニュースになる時代でもあり、あからさまに猫を捨てる人は少なくなったかとは思いますが、竹中労さんはそうした人間の所業を強く戒めます。本文の中から少し紹介しましょう。

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とりわけて、子供にネコを捨てろと命ずる親たちを、吾輩はおぞましく思うのだ。人の生命だけが尊厳であり、生きとし生ける者も差別して、就中はっきりと表情を持ち、魂を持つ生命を平然と奪う惨心を、わが子にうえつけていることに、親たちは気がつかぬのである。(1978.10「猫の手帖」1号より)
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この文章の前に、竹中労ファンならご存知夢野久作の「春の夜の電柱にもたれて思う……」から始まる一節を出しています。人と人との争いには理由があるものの、全く心の痛みも感じず人間同士のやりとりになることは稀です。しかし、それが人間でなく猫や犬に対象が変わったとたん、冷酷な仕打ちを押し付けるような教育を親が子供に対して当時していたとしたならば、平然と人を物理的にも精神的に傷つけても何の感情も表さず反省もない大人が今のこの社会にうようよいることにもなるのですが。

その後、話はまた竹中宅内「共和国」の猫の話に戻るのですが、傑作なのが仲間の猫が嫌いで、屋根裏に隠れるようにして生活しているものの子育てをする時だけ降りてくるゴッドマザー猫の困った行状に対しての人間たちの騒ぎっぷりです。子育て後になぜか我が子に家出を命ずるのが常なのだそうで、そのたびに共和国世話役のアシスタントの方が先頭に立ち、子ネコの大捜索が行なわれていたのだそうです。

これも竹中労さんの本を読んだり当時の仕事などをご存知の方からすると、箱根の家で仕事をしていた時も公安警察が竹中さんの動きを監視しており、あの人は赤軍派の黒幕だからと近隣住民に吹き込んで協力を得ようとしていたこともあったかも知れません。しかし、こうした公安の目論見は失敗に終わったと竹中さんは書いています。その部分をここで紹介しましょう。

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「ネコをあんなに可愛がっている人が赤軍であるはずがない」と、むこう三軒両隣りで大いに弁護を(!)してくれたことであった。最近では宮城野のネコ屋敷といえば、タクシーが二つ返事で客を運んでくれるのである。(1978.10「猫の手帖」1号より)
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一匹や二匹なら過激派が姿をかくすためにカモフラージュしているということはあるかも知れませんが、少なくとも迷い猫・捨て猫・野良猫を保護してきて50匹以上のコロニーを作るなんていうことは、たとえ過激派との接触があったとしても、「黒幕」という風にとらえるのはそれこそ公安だけだったことでしょう。竹中さんのお宅で生活しているネコはネズミを捕るだけではなく、公安すらも遠ざけてくれたというのはなかなか面白い話です。


「にゃんにゃん共和国」を読む その0 雑誌ライブラリーへ

竹中労さんの著作を集めている方は多いと思いますが、まだ単行本化されていない雑誌連載まで追うというのはなかなか大変です。ただ今回、そんな雑誌連載の中で注目したのが、他のルポルタージュとは一線を画す猫についての文章でした。

竹中労さんの年譜にも記載があるのですが、1978(昭和53年)48才の時に他の仕事とはかなり毛色の違った連載がありました。それが創刊した「猫の手帖」の1号から続いた「にゃんにゃん共和国」だったわけです。

具体的な内容については次回以降に紹介する予定ですが、個人的にはこの連載を読んでいなかったこともあり、何とか知らない人にも紹介をしたいと思ってまずは雑誌自体のバックナンバーを扱っていそうな古書店を探しました。こういう場合は実際にお店に行くよりもネットで商売をしている、猫の本を扱っている古本屋さんを見付けて、そこに置いてあるバックナンバーを買いあさるのがいいかと思ったのですが、ここで役に立ったのはそうした専門店には一通りの内容も書いてあるということでした。

雑誌「猫の手帖」には様々な別冊があり、竹中労さんの「にゃんにゃん共和国」は隔月の通常の形の雑誌内に掲載されています。さらに今回調べてみてわかったのですが、物書きとしては掟破りの途中一回の休載があるので、その辺をよく調べないと労さんの文章の載っていない号を高いお金を出して買ってしまうことにもなりかねません。

さらに、連載はちょうど映画「戒厳令の夜」に向けて動いている時と重なっているため、唐突に共和国は「崩壊」したという事になっています。ただ気になるのは、猫の手帖には竹中労さんの連載終了後にも「その後のにゃんにゃん共和国」という記事が載っている号があり、何がどうしてそうなったのかというのは当時の事を良く知っている人に聞けばわかるのでしょうが、その前にぜひ竹中労さんの書いたものに目を通しておきたいと思っていたのです。

ネット上での調査を進めているうちに、一つのページが検索に引っかかったのですが「猫の手帖」が創刊号から全冊揃っている場所があるという話があり、よくよく見るとそれは東京都立図書館の中央ではなく多摩図書館で、実はこの多摩図書館は立川から国分寺に引っ越して2017年1月29日にオープンし、資料の貸出はできないものの、中にある資料の中で雑誌の収集については群を抜いています。公立図書館では国内最大級の規模(約17,000タイトル)の雑誌を所蔵する「東京マガジンバンク」があるので、雑誌を探す際には気軽に使え、館内でコピーも可能ということでした。

たまたま先日別件で東京に行く用事があったため、時間を調整して最寄り駅の西国分寺まで出向き、全ての掲載分が読めるようにネット上の検索から「にゃんにゃん共和国」掲載号をリストアップした紙を持って図書館へと出向きました。

館内では「雑誌名」「発行年月日」がわかれば紙に書いて提出するとその雑誌を書庫から持ってきてもらえます。もちろん館内にも検索用の端末はあるのですが、時間の節約をしてすぐに見たい場合には以下のリンクから探してみてください。

・東京都立図書館 蔵書検索
https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja

ちなみに、今回利用した掲載誌のリストは、上記検索ワードに「竹中労」と単純に入れても出てきません。あくまで1978年の猫の手帖創刊一号から順々にたどって行ってようやく出てきたものです。これからしばらくこの連載の内容に触れつつ、当時の時代の雰囲気を感じてみようと思います。