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チャーリー・パーカーと沖縄島唄の関係性を探る

私自身がこれほど竹中労さんにのめり込むことになってしまったというのは、実のところ竹中労さんの思想というよりも音楽の趣味の良さを先に好きになったからということがあります。でも、最初の頃はなぜ美空ひばりや沖縄島唄がすごいのかということはわかりませんでした(^^;)。前者については、単に若い頃の音楽の趣味が洋楽中心だったため、日本の演歌なんて古臭いものはという感じで全く聞く耳を持っていませんで、後者の方はというと、小さい頃からの私の聞いていた音楽ジャンルというのはポップなものばかりで、言葉もわからず音階の関係からどの曲も同じ曲に聞こえてしまうという、当時は全く耳が肥えていなかったという事は言えると思います。

そんな私の状況と竹中労さんを結びつけるというのは無理な話ではあるのですが、竹中さんが「たまの本」で書いているご自身の音楽遍歴を読んでいると、その足跡をたどることはできます。学校の音楽の成績は全く駄目だだったものの、少年の頃に声帯模写をした川田義雄(この方はまだ幼い美空ひばりさんとの共演も多い師匠にあたる方です)とあきれたぼういずや、エノケンこと榎本健一の歌っていた曲というものが竹中労さんの原体験として体に染み込んでいたというのは実に興味深いことです。

おそらく少年の頃というのはそれが何物かもわからず、ただ面白いものの真似をしているに過ぎないのではないかと思うのですが、後になってそのルーツがわかった時、さらなる興奮を覚えるものです。竹中労さんにとってのその時とは、軍国少年として戦時中に軍の施設で働いていた時に、かわいがってもらった青年将校に蓄音機で聴かせてもらった当時は敵国だったアメリカのジャズがそれでした。戦前の浅草の芸人達は、こぞってジャズを自分なりに崩してネタにしていたのですが、その原曲を初めて知ることによって、戦後にジャズをおおっぴらに演奏したり聴けるようになると、まるでスポンジが水を吸うように新しいジャズを聴き込んで行ったというのは想像に難くありません。その中でも一番の実力と人気を誇ったのが、竹中労さんが「神」と崇めた「チャーリー・パーカー」だったのでした。

実際にチャーリー・パーカーの音楽を聴いた方はおわかりかと思いますが、そのメロディ自体はとてもとっつきやすく、メロディを含むテーマの後に繰り広げられる彼の自由闊達なソロは必死に聴いて何とかわかるというようなものでは決してなく、あくまで自然に聴く人の耳に入ってきながらもその真似できない凄さがわかるという感じでした。私のチャーリー・パーカー初体験は、日本人のジャズマンが彼の曲「ドナ・リー」を演っていて、演奏者ではなくこの曲を作った人はどんな人か? というところに興味が行き、彼のレコードを手に入れて聴いたのですが、自分もパーカーをジャズ入門時に聴いていれば、もう少しまともにジャズと向かい合えたのではないかとすら思えた覚えがあります。

チャーリー・パーカーはもちろん、ジャズもそんなに聞いていないという方に、パーカーの凄さをもう少し説明すると、彼はアルト・サックスを吹くのですが、上記で挙げさせていただいたような作曲の才能はもちろんあるのですが、さらに凄いのはメロディを吹いた後にその場その場で即興の演奏をし、その内容が素晴らしいという事があります。彼の現在聴くことのできるCDには全く同じ曲がひたすら続く、知らない人にとっては拷問としか思えない曲の並びがある作品も存在するのですが、なぜ同じ曲が続くかというと、メロディの後の即興演奏の部分が全てのテイクで違うので、聴く人はその違いを楽しむように同じ曲でも別の日・時間に録音した演奏を聴き比べるのです。

こうした即興演奏を楽しむという習慣というのは決して現代だけのものではなく、古くはクラシックの大作曲家として知られているバッハやベートーベン、モーツァルトもやっていたといいます。ただ残念なことに、当時は即興で生まれる音楽を記録する方法が楽譜しかありませんでした。もしその時代に音を録音する機材があったら、今の私たちは大作曲家自らが即興で演奏したものを楽しむことができたのかも知れませんが、録音技術が生まれた時に最盛期を迎えたのがチャーリー・パーカーをはじめとするジャズ演奏家だったのです。

彼の音源は必ずしも状態のいいものばかりではありませんが、かなり音質が悪いものでも彼の音というのは実に魅力的です。その日その場でしか聴くことができなかったものを、録音することによって場所も時間も飛び込えて楽しむことができるということを竹中労さんがチャーリー・パーカーを聴き始めた頃にどこまで考えていたのかはわかりませんが、この体験が後に自身が惚れ込んでしまった島唄の名手の今を録音して広く伝えたいという風になっていったことは間違いないでしょう。

多くの歌い手の中でも特に素晴らしいと言われた嘉手苅林昌さんは、彼がまだ若い時分には存在したと言われる自由恋愛の場「毛遊び(もうあしび)」の席で、ずっと三線を奏でていたと言われています。その時によって違うでしょうが、通り一遍の唄ではなく、その場その場で歌詞や曲を勝手に作って唄い続ける必要があったわけで(そんな状況の中なので歌詞の内容も猥歌になる場合も多分にあります)、それはチャーリー・パーカーの演奏にも同じような部分を見付け出すことができます。

このように即興で作曲し、自分だけの音として聴衆に納得させてしまうには天賦の才能が必要ですが、本物を知っている人は本物を見分けられるだけの眼力を持っているとも言えるのかも知れませんが、しみじみ音楽家としての経歴もない竹中労さんの音楽的な魅力を見付ける眼力は凄いものだと思います。私などはただただこうした才能に憧れるばかりですが、だからこそ、竹中労さんが推す音楽に多くの人が注目するのでしょう。


過激派としての竹中労 その2 竹中労さんはいつまで共産党に?

私がこの文章を書いているのは2016年で、竹中労さんがお亡くなりになってから25年が経っています。もし竹中労さんが同年に生きていたとしたらすでに80を超える高齢になっているので、直接古い時代からの竹中労さんを知っている人は確実に少なくなっています。

そんな中、どのようにして竹中労という人物の業績やその姿を知るかというと、評伝を読むというのがてっとり早いでしょう。過去にいくつもの評伝や人物研究の書物が出ていますが、今回紹介したいのはその中でも、現代書館の「竹中労・無頼の哀しみ」(木村聖哉・著 1999年)を取り上げます。というのもこの本の記述の中に、前回の最後に紹介した「竹中労さんが1980年代の始めまで共産党にいた」という事が書かれているのです。

竹中労・無頼の哀しみ

本の中味を紹介する前に、この木村聖哉氏がどんな人物であるかということを私がわかっている限りの知識で紹介します。この方とは実は私は直接お会いしたことがあって、それは竹中労さんが亡くなってすぐ、「別れの音楽会」という追悼イベントを企画することになり、当時の事務局だった石原優子さんが実行委員会を組む時に、そのメンバーとして招集された方のお一人です。生前の竹中労さんと雑誌「話の特集」で濃密な関係があった方であり、当時の私は下働きのスタッフとして資料の印刷などの雑用を任されていた縁もあって、実行委員会の席でお会いしました。実際にお会いした印象は実に物静かな方でしたが、この評伝を見るとわかりますが、単に竹中労さんに心酔していた当時の私とは全く違い、それなりに竹中労さんへの批判を込めたご意見もお持ちになっていたからこそ、なかなか書くのが難しいと思われる竹中労さんの評伝をお書きになれたのだと思います。

それでは、改めてこの評伝の中にある竹中労さんの共産党の在籍問題について書かれている所について紹介します。

(引用ここから)
先頃ある出版パーティで久しぶりに矢崎泰久さんと会った。その雑談中に「竹中さんはかなり後まで、おそらく八〇年代の初め頃まで共産党にいたらしいよ。だから革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」ど信じられないことを言う。
矢崎さんは話を面白くする癖があるので、”要注意”だが、共産党の某国会議員から直に聞いたそうだから、一笑に付すわけにはいくまい。
(竹中労・無頼の哀しみ 142ページから一部引用)

木村氏は「話の特集」編集長であった矢崎氏の発言を受けて竹中労さんの事を「やはり党派の人だったんだなぁ」と書くものの、本当にずっと後まで共産党にいたのかについての結論を出すことは避けています。周辺の人物に取材してこのような話があったという感じに書いているに過ぎないのですが、先日の山梨で行なわれた竹中労さんの没後25年のトークライブの席上でもこうした話があるということで紹介されていましたし、竹中労さんをよく知る人であればこその関心事であることに変わりはないでしょう。
木村氏がこの件の記述にかかる直前に、彼が東京代々木の共産党本部に出向き、公式に竹中労さんの党籍についてはどうなっているのか調べに行き、統制委員会の担当者に調べてもらったものの竹中労除名の記録はないということを紹介しています。

個人的な感想としては共産党というのはそれほどオープンに対応してくれるところなのかと思いましたが、書かれた内容を文字通りにとらえれば、ずっと共産党に名前が残っていたのかという風に考える人も出てくるわけですね。

ここで、竹中労さんが書く共産党との関わりについて書いておきますと、元々竹中労さんは共産党に入党して活動をしていました。年譜の中からそうした活動の部分を拾っていきますと、昭和22年17才の時に共産党に入党し、離党と復党をくりかえしながら、昭和36年・31才の時に「党を内部から改革しようとして」復党し、党の文化活動にあたります。その頃の目立った活動としては団地の自治会長になったり東映俳優労働組合を支援したり、大阪労音制作「大日本演歌党」(バーブ佐竹主演)を川内康範氏と共同演出したりしています。また、「美空ひばり」や「ビートルズレポート」もここまでの時代の作品です。

年譜の記載に従うと、その後の昭和42年(1967年)の映画・祇園祭のプロデューサーを降りた後の記載に、「日本共産党を「復党見込みなし」の除名。」とあります。ここからもし1980年代前半まで共産党員として活動しているとすると、日本共産党というところは実際は竹中労さんを除名せずに相当寛大に竹中労さんの活動を黙認していたのか、反対に、除名以前の問題だという事で、もう関係ない人だと処理もせずに放っておいたのかどちらかなのではないかと考えられます。竹中労さんが除名と書いている以上、竹中さんサイドから名簿から消せとわざわざ出掛けたこともないでしょうし。そうなるとここで改めて木村氏の本に出てくる矢崎泰久氏の発言を繰り返し検証してみることが必要になるでしょう。というのも、矢崎氏は木村氏に向けて、

「革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」

と言っていたことになっています。それが真実だとすると、竹中労さんは「革自連」についての情報を共産党に流し、選挙の時に共産党に有利になるような密告をしていたともとられかねませんが、それ以前にそもそも「革自連」って何? と思われる方もいるのではないかと思います。ということで、今回はここまでにして、次回は「革自連」についての話から入り、木村氏の本の中で矢崎氏が言ったとされる「革自連」内部の暴露小説「湿った火薬」の内容が全て真実なのかどうか、後に出た竹中労さんの反論文とともに紹介しながら考えてみたいと思います。


島唄紹介のパイオニアとして紹介「朝日新聞」

2016年10月25日朝日新聞朝刊の文化・文芸欄にTHE BOOMで活躍された宮沢和史さんが行なっている沖縄の民謡保存活動について紹介されていました。宮沢さんと言えば、沖縄島唄への憧れを曲にしたその名も「島唄」が国内だけでなく海外でもヒットし、今に続く沖縄音楽のブームの一翼を担った人としても知られています。

20161025朝日新聞

ただ、記事には書いてありませんでしたが、その曲の題名を「島唄」と付けてしまったため、広くこの曲がヒットしても、本来は沖縄の民謡全体の呼び名である「島唄」という固有名詞を特定の曲の名前として一人立ちさせてしまったことへの反発も当時からあったようです。というのも、この辺の事情を知らない沖縄にやってきた観光客から、「島唄を唄って」と言われた場合、それが一般的な沖縄の民謡を指すのか、宮沢氏の作品の方なのかわからずにトラブルになったこともあったかも知れません。

しかし、単なるヤマトンチュ(沖縄の人たちからみた県外の人たち呼び名)のお遊びではなく、それ以降も地道な活動で沖縄との付き合いを宮沢氏が続けていったことにより、現地の方の協力も得ながら、今回紹介された沖縄民謡の録音による保存活動へとつながっていったようです。

ただ、やはり沖縄には沖縄のしきたりというものがあって、多くの唄者に協力を呼びかけて賛同してもらうことがこのプロジェクトが成功するかどうかのカギになっていたことでしょう。そんな中、この記事の中でキーマンとして名前が挙がっていたのが地元のレコード会社「キャンパスレコード」社長の備瀬善勝氏です。

宮沢氏の活動に協力を呼び掛けたのは、過去に沖縄にやってきて島唄にしびれ、唄者にはきちんとギャラを出してレコードを録音し、熱心に本土に紹介した竹中労さんのことを思い出したからだと記事では書かれています。こうした支援の結果、245曲・CD17枚組という「沖縄 宮古 八重山民謡大全集」にまとめ、2016年11月に発売するだけでなく、沖縄県内の学校や図書館など約500ヶ所に寄贈する見通しが立ったということです。

今回紹介した宮沢和史さんと竹中労さんとは直接の関係はありませんが、もし竹中労さんが元気な時にインターネツトを使ったクラウドファンディングなる仕組みがあったら(今回の宮沢氏のプロジェクトではこの仕組みが使われたとのことです)、大手の企業が食い付いてこないようなマイナーな企画でも何とか資金面での援助を受けてもっと色んなことができていたのではないかと夢想することができます。

ただそれも、最初に竹中労さんが沖縄に入って唄者の信頼を受けるまでにかかった労力を考えると、今こうやって沖縄の音楽を普通に聴ける環境ができていること自体が大切な宝のようなものだともしみじみ思います。個人的にも竹中労さんが行なった功績の一つとして、決して忘れないようにしたいものです。


過激派としての竹中労 その1 私の竹中労初体験について

竹中労さんとはどんな事をやった人物かという事を考える中で、まず書いておきたいのは、私自身の竹中労初体験の思い出についてです。今から考えると、この体験の前にもテレビでそのお姿を見ていたとは思うのですが、今回紹介する署名記事を見た時には竹中労という名前と確かに小さい頃に見ていた記憶のあるテレビ番組「全日本歌謡選手権」の審査員という線は結び付きませんでした。あくまで「竹中労」というちょっと変わった名前と、書かれた文章によってのみ印象付けられた竹中労さんの肩書きが「過激派」というのが特に印象に残りました。

リベルタン創刊号

そんな竹中労さんの署名記事が掲載されていたのが、1982年8月に朝日ソノラマから出た雑誌「リベルタン」創刊号で、小池重明氏と升田幸三氏の将棋対局が目玉企画になっていたこともあり、将棋ファンの方はご存知かも知れません(この対局の様子については後に単行本や文庫になっています)。また坂本龍一氏と竹田賢一氏の対談も興味深いものでした。ただ、第2号が結局出ないまま終わってしまったのが残念でした。

なぜこんなことになってしまったのか、今となってはうかがい知ることはできませんが、創刊号の編集後記に編集長が「将棋に夢中になっているうちにいろんなものが入り込んでしまった」と嘆いていて、その一つに竹中労さんのコラムがあったのではないかと思えたりするのです。

というのも竹中労さん自身がコラムの中で、「そら、過激派の本音が出た」と、当時の自身の世間からの評判について自虐的に書いていますし、さらに同じ号にはあの鈴木邦男氏が新右翼団体である一水会の機関紙である「レコンキスタ」の紹介と称して、あからさまに若者よ民族派に来たれというようなアジ文をそのまま載せていたりしました。

1980年代の「過激派」というのは、当時の共産党のやり方に満足せず、より先鋭的に国内外での革命を目指す集団だとしての個人的な認識があり、一部の人から実際にテロを行ない世間を騒がせた過激派の親玉だと思われていた竹中労さんが、まともな媒体に文章を載せることは困難だったと思われます。そんな中、一応は名の通ったメジャーな出版社が出した雑誌に当時の竹中労さんの文章が載ることは、たまたまだっととは言え、自分の手に届いたというのはラッキーだったとしか言えません。

では実際、「リベルタン」に掲載された竹中労さんのコラムはどういう内容だったかと言いますと、過激な事は過激ではありましたが、当時全くの思想的に無垢だった私自身の心にも響いてくる反核運動にかこつけた当時の「左翼」に向けての批判でした(以下の引用は全て1982年8月、朝日ソノラマ「リベルタン」掲載の竹中労「異議あり!」からのものです)。

(ここから引用)
……「沖縄を返せ」「安保反対」「米帝は日中人民共同の敵」えとせとら・etc、シュプレヒコールはくりかえされ風化して、状況は変らない。いや確実に悪くなっていく。
(中略)
セーノと声をそろえりゃ世の中変るというおめでたい幻想、かくて社共統一・民主連合の亡霊はまたしてもよみがえる……
(引用ここまで)

この文章を改めて2016年という段階で読んでみると、ネットにあふれるいわゆる「ネトウヨ」が左翼を批判するロジックと同じように感じることができます。当時は、昔からの反対を連呼することに終始する左翼的活動に異を唱える知識人はそうそういなかったと思います。さらに、反核運動はどこに向かうべきかという点について、こんな指摘をしています。

(ここから引用)
言わずもがな、反核運動は具体的に反原発の闘争となる。何千万・億の署名よりも、一つの原子力発電所を破壊した方が有効である。
(引用ここまで)

この文の後で、「そら、過激派の本音が出た」というフレーズに続くのですが、当時は反核と反原発とは切り離した運動がされていたように思います。なぜなら、アニメ「鉄腕アトム」について、その存在自体を糾弾する人など皆無で、原子力を人間がコントロールして安全に使うことができるという事が広く信じられていた時代なのです。

そんな時代背景により、この発言をもって竹中労さんを「過激派だ」と一蹴してしまう人がいたからこそ、当時の竹中労さんは孤立して書く場を失なっていったと言えるわけですが、当時は画期的だと思った竹中労さんの考えというのも、まだまだその後の現実を見ていく中では甘かったと言わざるを得ません。もっとも、竹中労さんもさすがにメルトダウンを伴う大事故が起きれば日本の為政者や電力会社も原子力発電を止めるだろうと考えていたのでしょうが、原発再稼働どころか核武装まで真面目に考えている人たちが世間から大いなる支持を受けているわけですから、世の中が竹中労さんの考え以上に変わってきてしまっているということも言えるかと思います。

そんな中、このコラムの最後に、竹中労さん自らが「過激派」と呼ばれることになったきっかけについて記しています。

(引用ここから)
六五年、原爆スラムのルポルタージュを書いた。七〇年、朝鮮人被爆者を取材して一冊の本を編み、一本の記録映画を制作した(倭奴【ウエノム】へ――在韓被爆者無告の二十六年/日新報道&日本ドキュメンタリスト・ユニオン)。
この年から「左翼」にとっての異端と私は呼ばれ、過激派の黒幕と目されるようになった。
(引用ここまで)

さらにこのコラムの中で竹中労さんは、当時の革新勢力の人たちの事を”「革新を保守する」者”とも揶揄していますが、正に今、そうした人たちの長きに渡る行動が全ての左向きの人の行動を批判する中で「ネトウヨ」の攻撃基準になっているように私には思えて仕方ないのです。当時の左翼の方の中では、異端として切リ捨てたケースが多かったかも知れない竹中労さんの考えをもう少し真摯にくみ取っていれば、ここまでネトウヨから左と言うだけで集中砲火を受けるような状況にはならなかったのではと私には思えるのですが。

と、ここまで書いてきましたが、こうした竹中労さんの筆によるコラムが書かれていた80年代の初め頃まで、実は竹中労さんは日本共産党にいたという話があります。となると、今回紹介した文章はどう捉えた方がいいのか、全くわけがわからなくなってしまいます。今回はここまでにして、次回は竹中労さんがいつまで共産党にいて、党のために活動をしていたのかということについて、書物をひもときながら考えていきたいと思っています。


このサイトを訪れていただいた方へ

あまたあるブログの中からこのサイトを訪れていただきありがとうございます。このサイトは「竹中労」という人物をキーワードに様々な内容を書き連ねていくつもりで立ち上げたものですが、当方はプロの物書きではなくあくまで個人的な趣味と好奇心によって書いているものに過ぎないので、期待をされて中味をご覧になってもがっかりされてしまう方も少なくないと思われます。そうした方に向けて、まずは最初にお詫びしておきます。

今後、竹中労さんのきちんとした評伝は誰かがやってくれることを期待したいですが、それまでの展開として、世間から竹中労さんという存在が忘れ去られることがないように、個人的にでも何らかのアクションを起こそうということで、次世代の方へバトンを渡すような役割がこのブログを通して行なえればいいとも思っています。ただその中で明らかな誤りであるとか、誤解を見付けられた場合や、ここで書かれていない事で知っておいて欲しいという事を思った方がいらした場合には、大変申し訳ありませんがこちらまでご連絡をいただければ幸いです。

また、これから竹中労さんの著作物が発売されたり、竹中労さんの事を扱うイベントが行なわれるという話がありましたら、こちらの方で積極的に紹介させていただこうとも思っています。この件についても申し訳ありませんが、このブログで紹介漏れがあるものを知っておられる方がいましたらこちらまでご一報いただければ嬉しいです。