過激派としての竹中労 その1 私の竹中労初体験について

竹中労さんとはどんな事をやった人物かという事を考える中で、まず書いておきたいのは、私自身の竹中労初体験の思い出についてです。今から考えると、この体験の前にもテレビでそのお姿を見ていたとは思うのですが、今回紹介する署名記事を見た時には竹中労という名前と確かに小さい頃に見ていた記憶のあるテレビ番組「全日本歌謡選手権」の審査員という線は結び付きませんでした。あくまで「竹中労」というちょっと変わった名前と、書かれた文章によってのみ印象付けられた竹中労さんの肩書きが「過激派」というのが特に印象に残りました。

リベルタン創刊号

そんな竹中労さんの署名記事が掲載されていたのが、1982年8月に朝日ソノラマから出た雑誌「リベルタン」創刊号で、小池重明氏と升田幸三氏の将棋対局が目玉企画になっていたこともあり、将棋ファンの方はご存知かも知れません(この対局の様子については後に単行本や文庫になっています)。また坂本龍一氏と竹田賢一氏の対談も興味深いものでした。ただ、第2号が結局出ないまま終わってしまったのが残念でした。

なぜこんなことになってしまったのか、今となってはうかがい知ることはできませんが、創刊号の編集後記に編集長が「将棋に夢中になっているうちにいろんなものが入り込んでしまった」と嘆いていて、その一つに竹中労さんのコラムがあったのではないかと思えたりするのです。

というのも竹中労さん自身がコラムの中で、「そら、過激派の本音が出た」と、当時の自身の世間からの評判について自虐的に書いていますし、さらに同じ号にはあの鈴木邦男氏が新右翼団体である一水会の機関紙である「レコンキスタ」の紹介と称して、あからさまに若者よ民族派に来たれというようなアジ文をそのまま載せていたりしました。

1980年代の「過激派」というのは、当時の共産党のやり方に満足せず、より先鋭的に国内外での革命を目指す集団だとしての個人的な認識があり、一部の人から実際にテロを行ない世間を騒がせた過激派の親玉だと思われていた竹中労さんが、まともな媒体に文章を載せることは困難だったと思われます。そんな中、一応は名の通ったメジャーな出版社が出した雑誌に当時の竹中労さんの文章が載ることは、たまたまだっととは言え、自分の手に届いたというのはラッキーだったとしか言えません。

では実際、「リベルタン」に掲載された竹中労さんのコラムはどういう内容だったかと言いますと、過激な事は過激ではありましたが、当時全くの思想的に無垢だった私自身の心にも響いてくる反核運動にかこつけた当時の「左翼」に向けての批判でした(以下の引用は全て1982年8月、朝日ソノラマ「リベルタン」掲載の竹中労「異議あり!」からのものです)。

(ここから引用)
……「沖縄を返せ」「安保反対」「米帝は日中人民共同の敵」えとせとら・etc、シュプレヒコールはくりかえされ風化して、状況は変らない。いや確実に悪くなっていく。
(中略)
セーノと声をそろえりゃ世の中変るというおめでたい幻想、かくて社共統一・民主連合の亡霊はまたしてもよみがえる……
(引用ここまで)

この文章を改めて2016年という段階で読んでみると、ネットにあふれるいわゆる「ネトウヨ」が左翼を批判するロジックと同じように感じることができます。当時は、昔からの反対を連呼することに終始する左翼的活動に異を唱える知識人はそうそういなかったと思います。さらに、反核運動はどこに向かうべきかという点について、こんな指摘をしています。

(ここから引用)
言わずもがな、反核運動は具体的に反原発の闘争となる。何千万・億の署名よりも、一つの原子力発電所を破壊した方が有効である。
(引用ここまで)

この文の後で、「そら、過激派の本音が出た」というフレーズに続くのですが、当時は反核と反原発とは切り離した運動がされていたように思います。なぜなら、アニメ「鉄腕アトム」について、その存在自体を糾弾する人など皆無で、原子力を人間がコントロールして安全に使うことができるという事が広く信じられていた時代なのです。

そんな時代背景により、この発言をもって竹中労さんを「過激派だ」と一蹴してしまう人がいたからこそ、当時の竹中労さんは孤立して書く場を失なっていったと言えるわけですが、当時は画期的だと思った竹中労さんの考えというのも、まだまだその後の現実を見ていく中では甘かったと言わざるを得ません。もっとも、竹中労さんもさすがにメルトダウンを伴う大事故が起きれば日本の為政者や電力会社も原子力発電を止めるだろうと考えていたのでしょうが、原発再稼働どころか核武装まで真面目に考えている人たちが世間から大いなる支持を受けているわけですから、世の中が竹中労さんの考え以上に変わってきてしまっているということも言えるかと思います。

そんな中、このコラムの最後に、竹中労さん自らが「過激派」と呼ばれることになったきっかけについて記しています。

(引用ここから)
六五年、原爆スラムのルポルタージュを書いた。七〇年、朝鮮人被爆者を取材して一冊の本を編み、一本の記録映画を制作した(倭奴【ウエノム】へ――在韓被爆者無告の二十六年/日新報道&日本ドキュメンタリスト・ユニオン)。
この年から「左翼」にとっての異端と私は呼ばれ、過激派の黒幕と目されるようになった。
(引用ここまで)

さらにこのコラムの中で竹中労さんは、当時の革新勢力の人たちの事を”「革新を保守する」者”とも揶揄していますが、正に今、そうした人たちの長きに渡る行動が全ての左向きの人の行動を批判する中で「ネトウヨ」の攻撃基準になっているように私には思えて仕方ないのです。当時の左翼の方の中では、異端として切リ捨てたケースが多かったかも知れない竹中労さんの考えをもう少し真摯にくみ取っていれば、ここまでネトウヨから左と言うだけで集中砲火を受けるような状況にはならなかったのではと私には思えるのですが。

と、ここまで書いてきましたが、こうした竹中労さんの筆によるコラムが書かれていた80年代の初め頃まで、実は竹中労さんは日本共産党にいたという話があります。となると、今回紹介した文章はどう捉えた方がいいのか、全くわけがわからなくなってしまいます。今回はここまでにして、次回は竹中労さんがいつまで共産党にいて、党のために活動をしていたのかということについて、書物をひもときながら考えていきたいと思っています。

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