竹中労の基礎知識」カテゴリーアーカイブ

このブログのメインコンテンツです。竹中労さんに関する様々なことを、分類しながら書き連ねていきます。

「全日本歌謡選手権」の魅力とは?

昨日の2019年2月22日夜9時から放送された大阪・読売テレビ(ytv)の開局60周年記念ドラマ「約束のステージ」を見ました。番組の中で読売テレビとしての歴史に残る番組として「全日本歌謡選手権」という一般人だけでなく歌手として活動している人でも出演して10週勝ち抜けば自分のレコードを出す権利が与えられる番組の中で繰り広げられるドラマだったのですが、少々思っていたものとは違ったという感じでした。

というのも、「スター誕生」という同じようなオーディション番組の方が多くの人が知っていると思われる中、なぜ「全日本歌謡選手権」なのか? というところの答えをこのドラマから導き出すことは難しかったような気がします。

歌の上手い下手というのは聴いている人が評価すべきものだと思いますが、今回は主人公のお母さん役で出演した石野真子さんは、この番組にスター誕生に出る前に出演して落とされているのですが、その歌声と比べて今回出演した土屋太鳳さん、百田夏菜子さんの歌の実力はどうだったのかということをつい考えてしまいます。それは別に土屋さんや百田さんの事をディスっているのではなく、それだけ「全日本歌謡選手権」は出演者にとっては何を言われるかわからないくらい辛口の審査員を揃え、審査の厳しさに定評があったからです。

ドラマの中では毎回70点以上が合格で(審査員5人で1人の持ち点はそれぞれ20点)、10週勝ち抜けられればチャンピオンになるということが紹介されていたものの、勝ち抜くごとに合格のハードルは高くなるということはあまり伝わってきませんでした。というのも、番組から誕生した歌手3人を審査員役として出演させてしまったため、淡谷のり子さんや竹中労さんの人によっては厳しすぎて逆に敵意が湧いてきそうな辛口の審査員をキャスティングすることは難しかったのだろうとしか考えられないような気がします。

当時の事を知っている人だったら、まず当時の淡谷のり子さんや竹中労さんでも「あんたの歌は嫌い」だとか、「君は歌手には向いていないよ」というような厳しい台詞を出しようのない歌い手を出演としてオファーし、イメージとして当時の審査員に似せたキャスティングの中でも勝ち抜けるだけのポテンシャルを持った歌える役者を出して勝負しなければ、番組を見たことがない人の「全日本歌謡選手権」に対する印象というのは、かなり簡単に10週勝ち抜けそうな番組だと思われても今回のドラマの内容では致し方なかったと個人的には思います。

今の日本はドラマの中であってもかつての「全日本歌謡選手権」の雰囲気を伝えることは不可能なのだという事を感じたという点では見た収穫のあったドラマではありました。そうなるとさらに未来を指向する中での日本の音楽シーンというのは、ことテレビに出演して歌う事については、本当に実力のある人が出られないことが続くのではないか? と心配にもなります。まあ今の世の中はインターネットもありますので、そこからセルフプロデュースでも多くの人に歌を聴かせることはできる分、未知の才能が世に出やすくはなっているとは思うのですが、今のテレビ(地上波)がフィクションの中でも忠実に当時の「全日本歌謡選手権」を再在できなかった点に関しては、本当に残念なことだと思っています。


岡留安則さんの沖縄に骨を埋める決意

今回の岡留安則氏の訃報を、ネットニュースで知ることになりました。個人的なつながりはない方ですが、竹中労事務所を通じて様々な場に同席させていただけることはあったので、こちらが一方的に存じ上げていたに過ぎないながらも、その動向については常に気になる方でした。

竹中労さんとの関係で言えば、竹中労さんがお亡くなりになるまで岡留安則氏が編集長を務められていた月刊スキャンダル誌「噂の真相」で「竹中労のページ」というコラムを執筆されていたということで、当時事務所を一時期でしたが東京に移していた場所で行なわれた仲間うちでの故人を偲ぶ集いにお呼びして参加されました。その会にはありし日の樹木希林さんもやってきて、岡留氏はその様子を写真撮影し、ちゃっかり「噂の真相」誌上で紹介していて、有名雑誌のえげつなさというのを一般人が見る目線で感じさせていただいたこともありました。

その後、竹中労さんが想いをはせた沖縄に移住し、那覇市内でスナックを経営していた頃に一度仲間うちでおじゃましたことがありました。その時は沖縄で行なわれた竹中労さんの没後20年のコンサート終了後の関係者の二次会で利用したのですが、店内にあった女性アルバイト募集の文句が記憶に残っています。というのも、岡留氏のお店には東京から様々な名のある人がやってくるので、そうした人と実際に会って話したり色んなやり取りをすることがきっと役に立つのでは? という「口説き文句」のような募集文に、本当に野望のある女性がここから這い上がってきたらどうなるのだろうかとあらぬ妄想をしてしまったわけです。

岡留氏はこのように、自分のお店を中心にして人材を集め、「噂の真相」休刊後も新たな活動を模索していたように思います。米軍基地の有無について県民の信を問う県民投票を目前に控えての離脱はご本人が最高に無念だったことでしょう。岡留氏の事を悪く言う方も少なくないと思いますが、いわゆる本土で上から目線で沖縄の問題を見て意見するのではなく、沖縄に腰を落ち着けて活動していた岡留氏の行動について個人的には批判することはできません。さらに、竹中労さんや竹中労さんのアシスタントの石原優子さんと同じく沖縄の海に還るということになると、改めて沖縄という場所がそれぞれの方にとって特別な場所であったのかという風に感じるところです。故人のご冥福をお祈りいたします。


樹木希林さんの訃報を聞いて

2018年9月15日に女優の樹木希林さんが亡くなったというニュースが入ってきました。その前の月に左大腿骨を骨折して一時は意識不明だとか、穏やかではないニュースがあったものの、意識は回復したという話もあり安心していたのですが、こんなニュースを翌月に聞くようになるとはちょっと思えませんでした。

http://routakanaka.blog.fc2.com/blog-entry-10.html

彼女はこのブログや、このブログの前に開いていたブログ(上記リンクでご確認下さい)でも過去に書かせていただきましたが、竹中労さんの箱根の事務所を直接訪問し熱い議論をふっかけてきたというエピソードもあり、その頃から仲良くされていたようです。

竹中労さんが晩年にテレビに出演するきっかけを作ったのもフジテレビの「笑っていいとも!」の「テレフォンショッキング」のコーナーで竹中労さんを指名したこともその一因であり、その後「笑っていいとも!」のコーナーにも竹中労さんは出演していました。NHKBSの沖縄音楽の特集や同じNHK教育の竹中英太郎さんについての番組、民放では他に「イカ天」の審査員や「別冊イカ天」にたまと登場したり、読売テレビ「EX Osaka」(低俗の限界)、テレビ朝日の「ニュースバトル」の映像は現在勝手にYouTubeにアップされていますから見た方も多いでしょう。そうしたテレビ出演によって竹中労さんの事を知った方もいると思います。

竹中労さんの事を語るために山梨県甲府市に出向き、パネリストとして聴衆に竹中労さんの事を語ったことは、今でもはっきりと覚えています。竹中労さんを再びテレビに引きずり出したのは、竹中労さんは自分をセルフ・プロデュースしようとしないので、その点で批判をされていました。竹中労さん特有のテレビとの付き合い方を否定し、無理にでも全国の視聴者の前に竹中労さんを引っ張り出した仕掛人として、私は樹木希林さんのことを評価しています。

竹中労さんはまた、テレビ談語の連載の中で、市原悦子と樹木希林という2名の女優を比べ、「家政婦は見た!」という人気シリーズで名前を売った市原悦子さんの事を、シナリオに沿って楽にやっているとは言わなかったと思いますが、樹木希林さんの方が自分のために作られた長期シリーズがなく、その都度役を作りなおかつ存在感を保つという意味で、「樹木希林さんの方が上」と竹中労さんの分身である架空の座談会の出席者に言わせています。

また、TBSが「美空ひばり物語」を岸本加世子出演で行なった時にひばりさんのお母さんを熱演され、評価も高かったように記憶していますが、その際にも多少竹中労さんと事務所の石原さんとはやり取りがあったようです。竹中労さんが亡くなった直後、過去に「噂の真相」で岡留安則氏が撮影した写真が載った関係者の集まりに樹木希林さんも駆けつけてくださり、竹中労さんの思い出と石原さんとの関係を美空ひばりとお母さんとの関係になぞらえて発言したことを覚えています。ある意味、竹中労さんがお亡くなりになる前にテレビの前で輝いた状況をアシストしてくれたキーパーソンだったと思われます。

個人のご冥福をお祈りいたします。


美空ひばりにジャズを歌わせた後悔と「土着」

先日ラジオを聞いていたら歌手の八代亜紀さんが出演されていて、そこでは演歌ではなく「ジャズ歌手」としての作品について話していました。パーソナリティの高橋源一郎さんは自分が一番好きなジャンルはジャズボーカルだと言って、まさに番組に来てくれたゲストに対してのホストといった感じで話を進めていました。

音楽が商売にならなくなりつつある今、いかに自分の存在を知ってもらうかというところにおいて、こうした「他流試合」をうまくこなすことで、ディナーショーやコンサートなどでも新たな客層が開拓できるでしょうし、八代亜紀さんのこうした音楽活動についてとやかく言うことはありませんが、彼女にとってはやはり同じ演歌界の大先輩である美空ひばりさんがジャズを歌っていたということも大きいのではないでしょうか。

竹中労さんは美空ひばりさんが離婚した際に、ゴーストライターとなって彼女の手記を週刊誌に発表するなどし、身内で強力なマネージャーであったお母上にも厚い信頼を得ることに成功しました。その良好な関係は有名な単行本「美空ひばり」を世に出した時に山口組の田岡組長との関係を書いたことで決裂してしまうのですが、それまではかなり美空ひばりさんの近いところにいたわけです。

そんな中で、それとなく彼女に聴くことを勧めたのがジャスで、当時の竹中さんは彼女に英語でジャズを歌ってほしいと思っていたのでしょう。その後、亡くなったナット・キング・コール氏を偲んで出した「ひばり ジャズを歌う」というアルバムではライナーノーツに解説を書いて後押ししているのです。
しかし、竹中労さんはこの事を振り返って後悔しているようなフシがあります。

(引用ここから)
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つまり、ひばりを私は誤解していたのだ。たとえていうなら、マヘリア・ジャクソンに肉迫し、融合する歌い手として。

歌と人・歌と民族・歌と歴史は、まさにわかちがたき一体として存在する。すなわち、歌とは土着であることに、『美空ひばり』を書いた当時(その方向にいちおう論理を展開しながら)、私は確信を持てなかったのだ。すぐれた歌曲を有する民族は、おのれの歌を深め、磨くことを第一義とするべきであると言いきることに、〝国粋主義〟ではないのかというためらいがあった
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(以上 ちくま文庫『完本 美空ひばり』302ページからの引用)

私ごときの音楽観と比べては竹中労さんの事を書くについて大変失礼であることは重々承知であるのですが、西洋の音楽をルーツとしない日本の音楽というのは、多種多様な面白味のある西洋音楽に比べて劣っている、演歌なんてとんでもないというような時期があっていわゆる「洋楽」というものをメインに聴いていた時期がありました。美空ひばりさんについても、代表曲は「悲しい酒」しか知らず、マスコミが山口組との黒い交際をバッシング報道し、弟も暴力団員ということで紅白歌合戦落選というようなイメージの中でしか認識していなかったのが小・中学生の頃の美空ひばりさんの認識だったのです。

引用した竹中労さんの文章を見ても、素晴しいと思ってはいても「マヘリア・ジャクソン」より上か? と言えばそこまでの歌い手ではないと思っていたのではないかと考えられるような書き方をしています。それは、やはり「土着」というものの凄さをそこまで気付いていなかったからだと思われるのです。
しかし、そうした考え方は間違っているということに気付いた竹中労さんは自己批判をし、あえて昔にひばりさんにジャズを歌わせたことについて後悔しているのですが、これをあくまでもメインが演歌であくまで「他流試合」に過ぎないと思えば、むしろ彼女の土着性を再確認できるものだとも取ることもできるでしょう。

私自身、竹中労さんの文章を読むようになって美空ひばりさんの曲についても「悲しい酒」以外の古い曲もいろいろ聴く中で自分の中での評価が変わったところがありますが、かなり強烈だった体験があります。それがフジテレビの深夜バラエティ「北野ファンクラブ」で流れる「スターダスト」で、これが「ひばり ジャズを歌う」にも入っていたのです。

このように、ジャズを歌う美空ひばりさんの歌声を聴いて、改めて彼女の演歌の作品を聴いてみた方々も少なくなかったのではないでしょうか。ひばりさんの歌うジャズは土着からは離れさせるような解釈を今になってする方もいないでしょうし、かえって美空ひばりという歌手は、日本という土にしっくりと根ざした上で他のジャンルもスマートにカバーする存在であることを示すものとして、現在も楽しんでいればいいのではないかと思います。

竹中労さんと土着といえば、もう一つの例として挙げたいのがイカ天のグランドキングを獲得した「BIGIN」の評価についてです。竹中さんは彼らが当初その味を隠していた八重山諸島の味を見抜き、高く評価していました。彼らの現在を見ると、見事にそうした土着性を楽曲に生かすことで、当時はまだ知らなかった八重山の旋律を多くの日本人の心に届けてくれたというところがあります。

こうした「土着性こそが世界に通じる」傾向というのは竹中労さんがいきなり出してきたものではないのですが、それをわかりやすい形で流行歌・ポップスの世界に出した功績は大きいと思います。現代の歌手の中にはあえてそうした土着の素性を隠したり、土着の中にある素晴しいものを現代の歌と合わせることで埋没させてしまっている人もいると思うのですが、長いスパンで見ると残っていくのは土着の文化であることは自明です。今受けるポップスというのは当座の飯の種と割り切って、伝統の凄さというものも合わせて伝えていくことも必要ではないかと個人的には思います。


テレビ朝日「今夜、誕生!音楽チャンプ」はぬるすぎる?

アマチュアの歌手志望者や、プロの歌手でも現在低迷している方を多く出場させ、優勝者にスポットライトを当てるためのコンテスト番組といえば、古くからテレビを見ている方なら読売テレビの「全日本歌謡選手権」を思い出す方も少なくないと思います。2017年の秋から日曜夜にレギュラー放送されるテレビ朝日系「今夜、誕生!音楽チャンプ」が始まり、10月8日に第一回が放送されましたが、あくまで私が見た限りでは「全日本歌謡選手権」というよりも、イギリスのテレビオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」の劣化版といった趣ではなかったかなと思います。

多くの番組を見た方も同じように感じられた事かも知れませんが、審査員が厳しい言い方で「個性を出せ」というならば、採点の内容の半分がカラオケ採点マシンによる「譜面通りに音を外さず歌う」という採点基準を重視するのはちょっと矛盾します。ちなみに、審査員は4人いて、採点マシンが100点を持ち、各々の審査員は25点しか持てません。

論外だと判断された出場者がいても、カラオケマシン対策をして高得点を出せば勝ち抜けてしまいかねませんし、初回の採点内容を見ても、明らかに人間の審査員だけで評価すれば順位が変わってしまう場合がありました。こういう審査方法ではいくらキラリと光る才能を人間の審査員が感じた出場者がいたとしても、緊張で音を外したら他の出場者でカラオケ歌唱に特化した人には点数で負けることになってしまい、とにかく無難に歌い切った人だけが残っていくだけではないでしょうか。テレビ東京「THEカラオケ☆バトル」のように、素人で歌のうまい人を発掘するような番組の場合は機械オンリーで競う方法でも面白いとは思うのですが。

もちろん、歌唱力を評価しないで審査員の気分だけで落とされてしまうケースというものはありえますし、番組終了後のネットコメントを見ると、出場者に常に厳しい物言いをする特定の審査員についての非難コメントが続出していることから、あくまで選考は平等と説明できるカラオケマシンの採点を外せないクレーム対策というテレビ局の社内事情というものが関係しているのかなとも思えます。極端な例としては、幼少期の美空ひばりさんが加藤和枝という本名でNHKのど自慢に出て笠置シヅ子の歌を完璧に歌いこなしたにも関わらず、鐘が鳴らなかった理由が「大人の歌を子供が歌ったから」という今では考えられない理由だったという、実際に起こった話が参考になるのかも知れません。

ただ、テレビというものはその向こう側に多くの視聴している人々がいるわけで、全ての出場者を平等に歌っているところを流してくれさえすれば、合格した人と比べて明らかに審査員の意図で落とされた人の方が魅力的だった場合は、表面的でない本質的な審査員批判の声もネットを中心にして出てくるでしょう。ただ、この点でもこの番組は明らかに出場者を平等には扱わず、一部の出場者の歌唱をダイジェストで流したりもしていました。

予選の様子をダイジェストで流すのなら問題ないでしょうが、同じ土俵で競うところに差が出たら、番組自体に見せたい人の押し売りを疑う事にもなります。少なくとも今からでも番組の方針として、時間の問題があるというなら放送を複数回に分けるか全ての出場者の放送分をワンコーラスに限定するとかすべきだと思います。

この番組についてのネットの反応をひろっていくと、一部の審査員の厳しすぎる物言いに対する批判とともに目立ったのは、ある出演者の審査員や番組を舐めているのでは? と思えるような生返事のような受け答えについての批判でした。ここではあえてその方の名前出しは控えますが、厳しい批評というのは愛情の裏返しというところもあるのに、そうした厳しい意見を聞いているのかいないのかわからないような受け答えというのは、テレビで放送されてしまえば本人への批判という形になって帰ってくることがわからないという点で本人が批判される点はあるでしょう。しかしその前に個人的に番組に問いたいのは、それこそ番組で出場者に審査員が問うていた言葉ではありませんが、

「あなた方はこの番組で何を目指しているのか?」

という事です。基本的に初回の出場者というのはいわゆる「過去の人」になってしまっていた歌手が、歌手として再び日の当たる場所へ出て行くためのワンステップというようなコンセプトを出していました。ただそれにしては批判を浴びた出演者以外にもテレビの画面を通して見た限りですが、真剣さが見えずにヘラヘラ笑っているばかりの人もいて、もし竹中労さんの出ていた「全日本歌謡選手権」なら、竹中さんが収録を途中で遮ぎるように大声を挙げて、審査の対象にすらならずその場から帰ってもらうような類の暴言を浴びせていたように思います。当然ネット上では「あの竹中労というのは偉そうに何様だ。自分で歌えるのか」というような非難が集中したかと思いますが(^^;)、少なくともそのくらいの事をやらないと、出演者が真剣に番組に臨んではくれないのではないかとも思うのです。

もしかしたら、番組スタッフが出演者の面々に「全日本歌謡選手権」ばりに厳しくやるからというコンセプトを説明しないで、「新たな一面をこの番組で出してみてください」というようなぬるい説明で現場に出している可能性もあるのではと思っています。もしそうしたぬるい雰囲気で出演交渉をしていた場合、むしろ番組の意図と出演者の意図にずれがあったことによって起こった部分もあったとしたら、安易に出演者のバッシングに結びつける前に、番組自体の存在意義というものをもう一度問い直した方がいいような気がします。

それこそ、「全日本歌謡選手権」のような番組が今の日本で成立しえなくなった理由というのは、プロダクションの力が強くなり過ぎて、どれだけ歌唱力があって魅力的な人材がいたとしても弱小プロダクションでは評価される事も難しいほど大手プロダクションの圧力が強いからに他なりません。こういった話は昔の芸能界に限った話ではなく、今でもあからさまに「差別」されたのではないか? とされる話題には事欠きません。何よりもこの番組自体、大手プロダクションのジャニーズ事務所がからむ『関ジャニ∞のTheモーツァルト 音楽王NO.1決定戦』から派生したような番組であるわけで、今後に期待するのは厳しいかも知れません。

(2017.11.20追記)

前日の11月19日に、第二回の放送を見させていただきました。前回の分は第一回の放送を見ての感想でありましたが、第二回目から1ブロック6人の予選を行ない、準決勝、決勝という流れで盛り上げて優勝者をデビューさせるということになるということがわかりました。ただ、前回の放送から変わった部分もあります。

まず、審査員を一部変更し、さらに前回比較的強い調子で出演者に対して厳し目な言葉を掛けた審査員の方も出ていましたが、第二回目については総じて荒々しい酷評すらなくなり、びっくりすることに、敗退した一人の出演者には「歌手もいいけどミュージカルに向いている」とその人に合った新たなステージまで紹介してあげるという優しさに溢れた話ばかりで、前回のような厳しさは影を潜めていました。これはもしかしたら、思いの外ネット上で反感が生じたので軌道修正したのか? とも思えてしまいました。

さらに、審査員が技術的な講評を行なった場合、ご丁寧にVTRで直前に歌った出演者を流し、どの部分のどの歌い方をどのように修正すればもっと良くなるということを出演者だけではなく、視聴者により分かりやすく見せるという演出がされていました。これは、オーディション番組としての面白さと、カラオケをうまく歌いたいと思っている視聴者のためのカラオケ上達番組としてテレビ東京の「カラオケ★バトル」との差別化を狙っているのかと思います。

ただそこにあるのはいかに多面的に視聴者からの支持を得るかというスタッフの思惑ばかりであり、本気で世の中に眠っている才能を掘り起こそうとしているのかという疑問も出てきてしまいます。

ネットでは合格者の中にプロの歌手がいたということで、アマチュアとは違うのだからプロは出さない方がいいというような声も見付けることができましたが、「プロ」だから全てが良いというわけではありません。むしろプロとして凝り固まった歌い方や考え方をしていて売れないからこそ、この番組にプロが出てきているととらえると、本気でスターになりたいなら、プロよりも才能を認められ敗北に追い込むくらいの人が出てこないと面白くないでしょう。

どちらにしても、この番組では優勝したとしても、芸能事務所の中で「歌」が必要な時に駆り出されてこき使われるだけの歌い手としてのニーズを補充するようになってしまう可能性すらあります。今はYouTubeで自分の才能を発信することもできるわけですから、出演される方もこうしたテレビ出演の機会をうまく使って、自分のYouTubeチャンネルに人々を誘導するための手段として使うように考えた方がいいのかも知れません。


「にゃんにゃん共和国」を読む その3 俳諧的なものへの反感

この回の書き初めは、なぜか松尾芭蕉の一句から始まります。学生の頃に書いた作品鑑賞の内容をめぐり、正解ではないとされた独自の解釈により出した結論は、高尚とされた俳諧精神への反逆でした。

(ここから引用)
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芭蕉というやつはろくなもんじゃない、何が神明の加護あるべしだ!(「一家に遊女も寝たり萩と月」と詠んだ句の中で出てくる同宿した二人の遊女に同行を頼まれて断ったくだりでの話)かくて俳諧精神なるものに、少年は大いなる反感をいだいた。
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(引用ここまで)

こんな風に、素直に「にゃんにゃん共和国」の住ネコの紹介から始まらないのは、50匹以上の猫達(執筆時には58匹)と同居することによって起こる、シャレにならないエピソードの数々にさすがの竹中労さんも気が重くなったからでしょう。子供を産んだばかりの親猫が、子供が育たないと判断してその子の命を絶ってしまうという本能を人の手によって助けられなかったり、元気な若い猫が急にいなくなったと思ったら、鉄道軌道に入り込んで絶命してしまったり、不妊手術を受けさせようと思っている時に他人の家まで出張してすぐまた妊娠して子猫を産んでしまうという雌猫が起こす状況への嘆き、さらにその猫が他所様の家の中で子を産んだ猫が掛け軸の表装を破ってしまい、それを元通りにするための金銭的負担が出たことなど、原稿を書いてお金を捻出するしかない当時の竹中労さんとしては、じくじたる想いがあったことでしょう。

もっと言うと、当時は映画「戒厳令の夜」プロデューサーとして莫大な資金を捻出しなければならなかった時期も重なり、とても本連載の原稿料だけでは共和国の猫達を扶養することはできない中で、かなり重苦しい状況が伝わってきます。そこで最初の芭蕉の句に戻るわけですが、句に詠まれた遊女たちは芭蕉に女二人で伊勢を目指す旅をするのは大変に心細いので(芭蕉が泊まった宿までは道案内をしてくれる人がいたのですが、宿からの旅は二人だけの道行となるため)、何とか芭蕉たちの一行に加わらせてくれないかという切羽詰まった願いを述べたのですが、芭蕉はその願いを断ったことも含めてそこまでの状況を記録し、さらにその日の想いを詠んだ一句を今の世にまで残したというわけです。

もちろん、芭蕉が書き残したからこそ私たちは当時の様子や芭蕉の句を鑑賞できるわけですが、当時の遊女といえば身分としてはかなり低い存在だったわけで、そうした人を見捨てるかのような(もちろん断わった理由はちゃんとあったという解釈はあっていいとは思いますが)、芭蕉を当時の世間と比較してまさに”人情紙風船”というようなやるせなさを感じていたのではないかと想像することができます。

この連載は「猫の手帖」という猫を愛する人が好んで買って読む雑誌に書かれたものであるため、共和国に暮らす一匹一匹の猫について細かく記される様子というのは好評であったろうと思われますが、細かいそれぞれの猫のエピソードについてまではここで紹介することはできないことは申し訳ないと思います。ただ、今こうした竹中労さんの箱根にある猫屋敷の生活をひもといてみると、今も昔も一人の理想だけではどうにもならない状況というものは存在すると思えてしまうのです。

今回の文中の最後に、竹中労さんがこの連載を読んだ読書から匿名でのキャットフードの支援に素直に感謝するという一文に加えて、どうか匿名にしないで送ってくれ、いつかはお礼をする気はあるという事も書いています。この後の共和国の動向を考えるに、ちょっと気になる記述なのですが、その結末はまた改めて紹介します。前回から少し間が空いてしまいましたが、最後まで続けて紹介しますのでよろしくお願いします。


「にゃんにゃん共和国」を読む その2 66匹に増えた猫を養うため山を降りる?

竹中労さんの著作を読まれている人にとって、その生活における猫の比重はどのくらいのものであったかというのは、このルポに登場する「にゃんにゃん共和国」でネコの世話をしている方や、オンタイムで「猫の手帖」を読んでいるかしない限り、実感できなかったのではないかと思っています。

ともかく、ルポの内容を読んで行くと、急に屋根裏に入ったと思ったらいきなり出産することを繰り返すネコの話も出てくるので、竹中労さんのサイドで去勢手術などしないで飼っていることも類推されます。そんな風に多産系のネコが子を産んで増え、さらに前回のルポで「箱根の猫屋敷と言えばタクシーですぐに行ける」などと書き、さらには大体の住居の場所も匂わせているものだから、あえて竹中労さんの自宅にネコを捨てに来る輩も出てきたりして、第2回の冒頭から、にゃんにゃん共和国は前回より10匹も増えた66匹のさらなる大所帯になったことが書かれています。

相変わらず家にやっては来てもなじめないで脱走するネコの捕獲に人員が割かれるも、エサ代も捻出せねばならず、さらにはにゃんにゃん共和国管理人として、仕事をしながらも共和国在住のネコたちの機嫌も取り結んでいかなければならない(管理人としては共和国住人のネコに無視されたくないから?)となれば、当然のごとく仕事にならず原稿料も出ないのでたちまち共和国崩壊の危機に陥り、竹中労さんは山を降りて仕事中心の生活をしなければならなかったということになります。さらに言うと、ネコにとっては一番の苦手である冬の寒さによって風邪をひくと、これもまた費用のかかる動物病院のお世話になることで、竹中労事務所の負担は更に増えていくことへの嘆きも書かれています。箱根で暮らす竹中労さんにとって秋から冬へと変わる季節というのはまさしく魔の季節だったということでしょう。

ただ連載の方はそうした当時の状況とは別に、個別のネコについての紹介もあります。ただ66匹もいると、皆従順なわけでもなく、仕事をしてネコのエサ代を捻出しなければならない身からするとうんざりすることもあると言います。しかし竹中労さんはこうも書いています。

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ズッコッコ(共和国在住のネコの一匹の名前)の場合は、いささか痛ましくすら思え、とりわけ深夜に咆哮されると、カンシャクと不愍(ふびん)がいっしょにこみ上げてきて、いたたまれなくなるのだ。六十六匹もいる中には、こういう頭の煮えたやつがいて当然、「にゃんにゃん共和国」のそれは一つの与件なのである。
(猫の手帖2号 1978年12月)
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この内容をネコのコロニー内だけのことと考えてはいけません。人が集まる中でも同じように気の合う人もいれば見ただけでムカつく人もいます。そんな中共同生活をしていくためには上記の竹中労さんのような大いなる寛容さも必要になってくるというわけです。

私たちの生きる社会においても、中には肉体や精神に問題があり、なかなか社会になじめない人達もいるわけですが、そうした人を排除して仲間内だけで固まって共同体を作ったとしても、その小さな共同体の中でまた問題が起こってくることは間違いないでしょう。実際に自分の中で軽蔑することもあるかもしれませんが、その上で理解しようと努めることもまた共同体を構築するためには必要なことなのです。

このように、当初全く懐かないようなネコを辛抱強く接しているうちに馴染んでくる様子を猫キチ目線で描いている部分についてはぜひ実際に竹中労さんの文章にあたって欲しいですが、さらにここで革命家の面目躍如と言いますか、ここで更に「ネコのための革命」論を全面展開するのです。現状では目下の66匹のネコの生命を守るために山を降りて仕事をすることになるものの、日本全国、全世界の捨てられたり虐待されているネコのためにも革命を起こさねばならぬというわけです。

現代のペット事情というのほ当時とはかなり変わり、昔のように当たりかまわず犬やネコを捨てるような事は見なくなりました。しかし、今だに野良犬や野良猫を虐待する人はいますし、広場で暮らすノラネコに無断でエサをやることが問題になるなど、解決しなければならない事は数多くあるでしょう。人間とネコが共存して暮らしてゆくためにはやはり人間の社会を変えていくことが不可決であると竹中労さんは教えてくれています。


「にゃんにゃん共和国」を読む その1 56匹の猫と箱根で暮らす?

竹中労さんが猫好きだったということは猫と戯れる様子の写真から広く知られているとは思うのですが、箱根町宮城野に居を構えてから、「にゃんにゃん共和国」と称した猫のコロニーがあったことを知っている人は、特に新たに竹中労さんのことを知った方にとってはちょっとびっくりする事かも知れません。1978年8月に原稿が書かれた「猫の手帖」1978.10の第一回目の連載には、同年8月現在には総勢56匹という「猫系図」が紹介されています。

なおこの「猫系図」については隔月刊の雑誌発売時にどんな変化があるかということで、連載の中には必ず1ページを使って紹介されています。なぜこんなに多くの猫が竹中労さんと一緒に暮らしているかというと、元からいる猫が子どもを産むこともあるのですが、ノラの子猫を保護してきたり、竹中宅が猫屋敷だと言うことを知ってのことだろうと思うのですが、何の愛情もなく捨てていく不逞の輩が残していった猫も引きうけているからなのであります。

第一回目の「猫たちに無限の自由を!」にも、そうした人間の動物愛護精神のかけらもない、ひどい猫の捨て方に言及しています。無抵抗の子猫を自ら逃げ出すことができないように箱に紐を付け、ゴミ捨て場に放置していたものを、6匹のうちそれでも何とか2匹の命を取り留めることに成功するのですが、このようにして竹中宅にやってくる猫がいて50匹以上に増えてしまったのでした。

最近では動物愛護法に抵触する行為をしたことがニュースになる時代でもあり、あからさまに猫を捨てる人は少なくなったかとは思いますが、竹中労さんはそうした人間の所業を強く戒めます。本文の中から少し紹介しましょう。

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とりわけて、子供にネコを捨てろと命ずる親たちを、吾輩はおぞましく思うのだ。人の生命だけが尊厳であり、生きとし生ける者も差別して、就中はっきりと表情を持ち、魂を持つ生命を平然と奪う惨心を、わが子にうえつけていることに、親たちは気がつかぬのである。(1978.10「猫の手帖」1号より)
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この文章の前に、竹中労ファンならご存知夢野久作の「春の夜の電柱にもたれて思う……」から始まる一節を出しています。人と人との争いには理由があるものの、全く心の痛みも感じず人間同士のやりとりになることは稀です。しかし、それが人間でなく猫や犬に対象が変わったとたん、冷酷な仕打ちを押し付けるような教育を親が子供に対して当時していたとしたならば、平然と人を物理的にも精神的に傷つけても何の感情も表さず反省もない大人が今のこの社会にうようよいることにもなるのですが。

その後、話はまた竹中宅内「共和国」の猫の話に戻るのですが、傑作なのが仲間の猫が嫌いで、屋根裏に隠れるようにして生活しているものの子育てをする時だけ降りてくるゴッドマザー猫の困った行状に対しての人間たちの騒ぎっぷりです。子育て後になぜか我が子に家出を命ずるのが常なのだそうで、そのたびに共和国世話役のアシスタントの方が先頭に立ち、子ネコの大捜索が行なわれていたのだそうです。

これも竹中労さんの本を読んだり当時の仕事などをご存知の方からすると、箱根の家で仕事をしていた時も公安警察が竹中さんの動きを監視しており、あの人は赤軍派の黒幕だからと近隣住民に吹き込んで協力を得ようとしていたこともあったかも知れません。しかし、こうした公安の目論見は失敗に終わったと竹中さんは書いています。その部分をここで紹介しましょう。

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「ネコをあんなに可愛がっている人が赤軍であるはずがない」と、むこう三軒両隣りで大いに弁護を(!)してくれたことであった。最近では宮城野のネコ屋敷といえば、タクシーが二つ返事で客を運んでくれるのである。(1978.10「猫の手帖」1号より)
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一匹や二匹なら過激派が姿をかくすためにカモフラージュしているということはあるかも知れませんが、少なくとも迷い猫・捨て猫・野良猫を保護してきて50匹以上のコロニーを作るなんていうことは、たとえ過激派との接触があったとしても、「黒幕」という風にとらえるのはそれこそ公安だけだったことでしょう。竹中さんのお宅で生活しているネコはネズミを捕るだけではなく、公安すらも遠ざけてくれたというのはなかなか面白い話です。


「にゃんにゃん共和国」を読む その0 雑誌ライブラリーへ

竹中労さんの著作を集めている方は多いと思いますが、まだ単行本化されていない雑誌連載まで追うというのはなかなか大変です。ただ今回、そんな雑誌連載の中で注目したのが、他のルポルタージュとは一線を画す猫についての文章でした。

竹中労さんの年譜にも記載があるのですが、1978(昭和53年)48才の時に他の仕事とはかなり毛色の違った連載がありました。それが創刊した「猫の手帖」の1号から続いた「にゃんにゃん共和国」だったわけです。

具体的な内容については次回以降に紹介する予定ですが、個人的にはこの連載を読んでいなかったこともあり、何とか知らない人にも紹介をしたいと思ってまずは雑誌自体のバックナンバーを扱っていそうな古書店を探しました。こういう場合は実際にお店に行くよりもネットで商売をしている、猫の本を扱っている古本屋さんを見付けて、そこに置いてあるバックナンバーを買いあさるのがいいかと思ったのですが、ここで役に立ったのはそうした専門店には一通りの内容も書いてあるということでした。

雑誌「猫の手帖」には様々な別冊があり、竹中労さんの「にゃんにゃん共和国」は隔月の通常の形の雑誌内に掲載されています。さらに今回調べてみてわかったのですが、物書きとしては掟破りの途中一回の休載があるので、その辺をよく調べないと労さんの文章の載っていない号を高いお金を出して買ってしまうことにもなりかねません。

さらに、連載はちょうど映画「戒厳令の夜」に向けて動いている時と重なっているため、唐突に共和国は「崩壊」したという事になっています。ただ気になるのは、猫の手帖には竹中労さんの連載終了後にも「その後のにゃんにゃん共和国」という記事が載っている号があり、何がどうしてそうなったのかというのは当時の事を良く知っている人に聞けばわかるのでしょうが、その前にぜひ竹中労さんの書いたものに目を通しておきたいと思っていたのです。

ネット上での調査を進めているうちに、一つのページが検索に引っかかったのですが「猫の手帖」が創刊号から全冊揃っている場所があるという話があり、よくよく見るとそれは東京都立図書館の中央ではなく多摩図書館で、実はこの多摩図書館は立川から国分寺に引っ越して2017年1月29日にオープンし、資料の貸出はできないものの、中にある資料の中で雑誌の収集については群を抜いています。公立図書館では国内最大級の規模(約17,000タイトル)の雑誌を所蔵する「東京マガジンバンク」があるので、雑誌を探す際には気軽に使え、館内でコピーも可能ということでした。

たまたま先日別件で東京に行く用事があったため、時間を調整して最寄り駅の西国分寺まで出向き、全ての掲載分が読めるようにネット上の検索から「にゃんにゃん共和国」掲載号をリストアップした紙を持って図書館へと出向きました。

館内では「雑誌名」「発行年月日」がわかれば紙に書いて提出するとその雑誌を書庫から持ってきてもらえます。もちろん館内にも検索用の端末はあるのですが、時間の節約をしてすぐに見たい場合には以下のリンクから探してみてください。

・東京都立図書館 蔵書検索
https://catalog.library.metro.tokyo.jp/winj/opac/search-detail.do?lang=ja

ちなみに、今回利用した掲載誌のリストは、上記検索ワードに「竹中労」と単純に入れても出てきません。あくまで1978年の猫の手帖創刊一号から順々にたどって行ってようやく出てきたものです。これからしばらくこの連載の内容に触れつつ、当時の時代の雰囲気を感じてみようと思います。


竹中労さんが坂口安吾から受けた影響

竹中労さんは若い頃に「坂口安吾にしびれ」と書いていたことがあり、私自身も坂口安吾の本をよく読んでいたのでシンパシーを覚えたということがありますが、雑誌や単行本に書く文中でも坂口安吾氏の文章を引き合いに出すこともしばしばありました。そんな中、割と多く見掛けたものの中に有名なエッセイ「続堕落論」の中の一節があります。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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政治、そして社会制度は目のあらい網であり、人間は永遠に網にかからぬ魚である。(中略)人間は常に網からこぼれ、堕落し、そして制度は人間によって復讐される。
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竹中労さんが政治を語る際に多く出てくるフレーズですが、どんなに政治家が新たな制度を作っても、その流れに乗れないあぶれ者はおり、そのあぶれた者の中から批判を浴びたりした場合、政治とは永遠の修正作業というところもあるので、そうした意見に耳を傾けながらそれなりに網を修繕し続けることができるのかということがいつの時代の政治にも問われていると、坂口安吾が指摘している部分です。安吾は、その復讐は誰がするかという点については、同じ「続堕落論」の中でこう書いています。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。
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政治とは一定の距離を置いていたように思える坂口安吾がこのように書くのも、人間として良く生きるためにどうしたらいいのかと考える中で、単に社会制度を整備しただけでは人間の生活は良くならないと思うがゆえに、すぐには変えられない事はわかっていても問題点を挙げ、修正を繰り返すことによっていくらか「まし」なものに変えていこうとする政治に対しての援護射撃を文学がしていると思っているからこそです。よく、文学が生活の役に立つかという問いに対する安吾なりの意見であるとも言えるでしょう。

竹中労さんも革命家として本気で社会を変えようと様々な仕掛けをしたことも確かですが、革命は自分の目の黒いうちには無いだろうと思いつつも、社会に対する呼び掛けのような執筆活動はぎりぎりまで欠かしませんでした。自分と同じ志を持つ人を100人作ることができれば、その志はさらに多くの人に広まっていくのではないかというように、最終的には社会を変えることも考えながら発言をしていたのは引用させていただいた坂口安吾の文章にしびれたからだと言えなくもありません。

あと、坂口安吾と言えば、日本における天皇についての仕組みを多くの人にわかるように説明してくれた人物と評価することもできるでしょう。しかし、安吾自身は左翼というわけではなく、かと言って右翼でもなく、単に天皇制や当時の尾崎咢堂の「世界連邦論」を文学者としての立場から批判的に書いたに過ぎません。そして、その論理というのは現代にも通じる話として読むことができます。未読の方のために、少し長いですが日本人が歴代天皇とどのように関係を持っていたかを解き明かした部分を紹介しておきましょう。

坂口安吾『続堕落論』(青空文庫版)から引用
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天皇をないがしろにし、根柢的に天皇を冒涜(ぼうとく)しながら、盲目的に天皇を崇拝しているのである。ナンセンス! ああナンセンス極まれり。しかもこれが日本歴史を一貫する天皇制の真実の相であり、日本史の偽らざる実体なのである。
藤原氏の昔から、最も天皇を冒涜する者が最も天皇を崇拝していた。彼等は真に骨の髄から盲目的に崇拝し、同時に天皇をもてあそび、我が身の便利の道具とし、冒涜の限りをつくしていた。現代に至るまで、そして、現在も尚、代議士諸公は天皇の尊厳を云々し、国民は又、概おおむねそれを支持している。
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このような内容について、今なら「坂口安吾はアカヒの手先か」というような感想をもらす人も多く出てくるかも知れませんが、当時は左翼だけでなく右翼の若者にも安吾の文章は読まれていて、体制には反抗する「新右翼」の中でも原体験に安吾の文を挙げる方もいます。それが、朝日新聞社に乗り込んで自決するという人生の幕引きをした野村秋介氏でした。竹中労さんとの対談で安吾の事について語った部分がありますのでその部分も引用して紹介します。

新雑誌X 1983年11月号 「人物探検記 2」 野村秋介氏との対談から
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竹中:当時(引用者注 野村氏が二十才頃のこと)、どんな本を読んでたの?
野村:坂口安吾です、ね。『堕落論』とか、『不良少年とキリスト』なんか……
(中略)
竹中:やはり坂口安吾ですか!
野村:安吾のおかげで、「右翼」になったみたいなものです。
竹中:俺は安吾のおかげで”天皇制”のからくりが見えた(笑)。
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同じ人が書いた同じ本を読んでその内容にしびれ、しかし思想的には右と左に分かれていくという事がここでは語られています。だからこそ、同じ場で左右関係なく共闘することもできたということなのでしょうか。左でも右でも関係なく同じ世代で同じ価値感を共有するということは、今のネット世界にどっぷりと浸かっている人にはなかなか難しいかも知れませんが、そんな人には竹中労さんの文章もそうですが、坂口安吾の様々なエッセイも思想に関係なく読まれていって欲しいと個人的には思っています。