私がこの文章を書いているのは2016年で、竹中労さんがお亡くなりになってから25年が経っています。もし竹中労さんが同年に生きていたとしたらすでに80を超える高齢になっているので、直接古い時代からの竹中労さんを知っている人は確実に少なくなっています。
そんな中、どのようにして竹中労という人物の業績やその姿を知るかというと、評伝を読むというのがてっとり早いでしょう。過去にいくつもの評伝や人物研究の書物が出ていますが、今回紹介したいのはその中でも、現代書館の「竹中労・無頼の哀しみ」(木村聖哉・著 1999年)を取り上げます。というのもこの本の記述の中に、前回の最後に紹介した「竹中労さんが1980年代の始めまで共産党にいた」という事が書かれているのです。
本の中味を紹介する前に、この木村聖哉氏がどんな人物であるかということを私がわかっている限りの知識で紹介します。この方とは実は私は直接お会いしたことがあって、それは竹中労さんが亡くなってすぐ、「別れの音楽会」という追悼イベントを企画することになり、当時の事務局だった石原優子さんが実行委員会を組む時に、そのメンバーとして招集された方のお一人です。生前の竹中労さんと雑誌「話の特集」で濃密な関係があった方であり、当時の私は下働きのスタッフとして資料の印刷などの雑用を任されていた縁もあって、実行委員会の席でお会いしました。実際にお会いした印象は実に物静かな方でしたが、この評伝を見るとわかりますが、単に竹中労さんに心酔していた当時の私とは全く違い、それなりに竹中労さんへの批判を込めたご意見もお持ちになっていたからこそ、なかなか書くのが難しいと思われる竹中労さんの評伝をお書きになれたのだと思います。
それでは、改めてこの評伝の中にある竹中労さんの共産党の在籍問題について書かれている所について紹介します。
(引用ここから)
先頃ある出版パーティで久しぶりに矢崎泰久さんと会った。その雑談中に「竹中さんはかなり後まで、おそらく八〇年代の初め頃まで共産党にいたらしいよ。だから革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」ど信じられないことを言う。
矢崎さんは話を面白くする癖があるので、”要注意”だが、共産党の某国会議員から直に聞いたそうだから、一笑に付すわけにはいくまい。
(竹中労・無頼の哀しみ 142ページから一部引用)
木村氏は「話の特集」編集長であった矢崎氏の発言を受けて竹中労さんの事を「やはり党派の人だったんだなぁ」と書くものの、本当にずっと後まで共産党にいたのかについての結論を出すことは避けています。周辺の人物に取材してこのような話があったという感じに書いているに過ぎないのですが、先日の山梨で行なわれた竹中労さんの没後25年のトークライブの席上でもこうした話があるということで紹介されていましたし、竹中労さんをよく知る人であればこその関心事であることに変わりはないでしょう。
木村氏がこの件の記述にかかる直前に、彼が東京代々木の共産党本部に出向き、公式に竹中労さんの党籍についてはどうなっているのか調べに行き、統制委員会の担当者に調べてもらったものの竹中労除名の記録はないということを紹介しています。
個人的な感想としては共産党というのはそれほどオープンに対応してくれるところなのかと思いましたが、書かれた内容を文字通りにとらえれば、ずっと共産党に名前が残っていたのかという風に考える人も出てくるわけですね。
ここで、竹中労さんが書く共産党との関わりについて書いておきますと、元々竹中労さんは共産党に入党して活動をしていました。年譜の中からそうした活動の部分を拾っていきますと、昭和22年17才の時に共産党に入党し、離党と復党をくりかえしながら、昭和36年・31才の時に「党を内部から改革しようとして」復党し、党の文化活動にあたります。その頃の目立った活動としては団地の自治会長になったり東映俳優労働組合を支援したり、大阪労音制作「大日本演歌党」(バーブ佐竹主演)を川内康範氏と共同演出したりしています。また、「美空ひばり」や「ビートルズレポート」もここまでの時代の作品です。
年譜の記載に従うと、その後の昭和42年(1967年)の映画・祇園祭のプロデューサーを降りた後の記載に、「日本共産党を「復党見込みなし」の除名。」とあります。ここからもし1980年代前半まで共産党員として活動しているとすると、日本共産党というところは実際は竹中労さんを除名せずに相当寛大に竹中労さんの活動を黙認していたのか、反対に、除名以前の問題だという事で、もう関係ない人だと処理もせずに放っておいたのかどちらかなのではないかと考えられます。竹中労さんが除名と書いている以上、竹中さんサイドから名簿から消せとわざわざ出掛けたこともないでしょうし。そうなるとここで改めて木村氏の本に出てくる矢崎泰久氏の発言を繰り返し検証してみることが必要になるでしょう。というのも、矢崎氏は木村氏に向けて、
「革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」
と言っていたことになっています。それが真実だとすると、竹中労さんは「革自連」についての情報を共産党に流し、選挙の時に共産党に有利になるような密告をしていたともとられかねませんが、それ以前にそもそも「革自連」って何? と思われる方もいるのではないかと思います。ということで、今回はここまでにして、次回は「革自連」についての話から入り、木村氏の本の中で矢崎氏が言ったとされる「革自連」内部の暴露小説「湿った火薬」の内容が全て真実なのかどうか、後に出た竹中労さんの反論文とともに紹介しながら考えてみたいと思います。