過激派としての竹中労 その3「湿った火薬 小説革自連」で描かれた竹中労さん

手元に「湿った火薬 小説革自連/中山千夏・矢崎泰久」の単行本があります。たまたまアマゾンで検索を掛けたら大変リーズナブルな価格で売りに出ていたので注文し、このエントリーを書くために一通り読ませていただきました。

湿った火薬

「革自連」とは「革新自由連合」の略で、1977年の参議院選挙で議席を獲得し、政界のキャスティングボードを握ることで、当時の自民党中心の政治状況をひっくり返すために組織された団体です。「湿った火薬」はその創成期の様子を描いた小説なのですが、竹中労さんは旗揚げの前からその運動に関わっていて、本の中でも「野上功」という名前で登場します。著者はそのあと書きの中で、この物語について以上のように書いています。

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これは、革自連の六年を生きた私たちが、その創成期の経験をもとに創作した物語だ。
(「湿った火薬」356Pから引用)
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ただ、前回にも紹介したように、竹中労さんの評伝「竹中労・無頼の哀しみ」で著作の木村聖哉氏は評伝を書くにあたって矢崎泰久氏に聞いた話として、「湿った火薬」について矢崎氏がこう言われたということをそのまま書かれています。

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「小説」と銘打っているが、矢崎さんの言によると、「書かれていることはほとんど真実」だという。
(「竹中労・無頼の哀しみ」113ページから引用
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出版物として出された時と、後日の話というとになると、当然後の方が矢崎氏の本音を述べていると捉えるべきでしょう。そこで、改めて「湿った火薬」の内容について読んでいくと、野上功という小説上の人物とは言いながら、竹中労さんとおぼしき人物は居丈高で自分勝手な「トップ屋」とでも言うべきアクの強いルポライターとして描かれています。

革自連を作って状況を変えるという思想自体は矢崎氏も共感するところはあるものの、野上が革自連に関わっているということがわかると、それだけで協力を取り付けられなくなる人が多く出る可能性があるとして(このあたりも胡散臭い人物としての描写につながる設定ですが)、革自連の構想を最初に話し合った作家の花田一水(五木寛之氏)とともに、革自連からの「野上はずし」が行なわれたとされる顛末についても書かれています。

その手段として提示されたのが、五木寛之氏の書かれた小説「戒厳令の夜」の映画化で、本文の記載に即した形で書くと、映画製作というオモチャを与えられた竹中労さんはやすやすとそれに飛び付いたとされています。

そこからしばらくは映画製作に没頭していたものの、正式に革自連が動き出し、十人の立候補者が発表されたのを受け、そのあまりの最初の構想からの変わりように腹を立て、革自連の事務を行なっていた矢崎氏とばばこういち氏を前にして、周りの迷惑顧みず二人を怒鳴りつける場面が出てきます。それは、単なる革自連の候補者が当初案とはかなりかけ離れた人選になってしまったからというわけではなく、自らの事情に関するやつ当たりも含まれていたと暴露されます。野上功が製作するはずの映画のスポンサーだった企業がその日に倒産して、映画製作が窮地に陥ったからだとその場に同席したことになっている白井佳夫氏の言葉を借りながら語られるのです。

この場面を読んだだけでは、参議院選挙とは関係ない映画製作という別件がうまく行かなかったことにかこつけてヒステリックに感情を爆発させたひどい人と思われても仕方がないでしょう。さらに前回のエントリーでも書きましたが、竹中労さんが1980年代前半までは日本共産党にいて革自連の情報を流していたということになれば、単にヒステリックに仲間の情報を「売った」裏切り者として、本当に「竹中労が関わるなら自分は降りる」という人が多数を占めるくらいに業界の嫌われ者となってしまっているのではないかという感想も出てこようと言うものです。

しかし、「書いてあることはほとんど事実」だとしても小説は小説です。そこでこの文章を書くにあたりネット上に挙がっている「竹中労・年譜」を改めて調べてみました。

http://y-terada.com/Takenaka/nenpu/NENPU.HTM

内容を詳しく見たい方は上記ページのリンクをたどっていただければいいと思うのですが、この年譜の原本は竹中労さんが亡くなった後に開催された「竹中労 別れの音楽会」に参加された方に主催者側から配られたパンフレットの中の年譜の記載をそのまま写したものです。年譜を作られた大村茂氏が故人となっているため改めてその内容についてお伺いすることはできませんが、この内容について参議院選挙の行なわれた1997年を中心に見ていくと、明らかに時系列がずれた事実があることがわかりました。

小説では革自連の候補者発表とほぼ時を同じくして野上功の映画スポンサーが倒産したことになっているのですが、「戒厳令の夜」のスポンサーだった株式会社マリンフーズが倒産したのは1979年になってからです。また、1977年は革自連から立候補した俵萌子氏の選挙応援をしたことも年譜には書いてあります。

というわけで、竹中労さんが激怒したのは多少は映画製作がうまく行っていなかったこともあったのかも知れませんがそれは決定的なものではなく、純粋に当初の計画から理念も候補者も変わってしまったことへの憤りだったのではないでしょうか。それでもなお、その怒りの標的となった革自連から立候補した候補についても、浮世の義理ではあるにしても応援演説に立ち、自分が言い出しっぺになった運動に対しても放り投げていないことがわかります。もしかしたら、そうした流れの中で竹中労さんが共産党の国会議員に革自連はもうダメだ的な事を言ったのかも知れませんが、私には竹中労さんがスパイのような真似をして逐次共産党員としての任務を全うしていたようにはとても思えません。この辺りの事については、今後竹中労さんの行なった事をいろいろ書いていく中で、読まれている方が判断していただくのが一番いいだろうと思います。

さらに、「湿った火薬」について竹中労さん自身が書かれた物があります。今回のような当時の事も良く知らない私よりも的確な反論が書かれていますので、次回はその原稿の内容について詳しく紹介させていただきたいと思います。


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