竹中労の基礎知識」カテゴリーアーカイブ

このブログのメインコンテンツです。竹中労さんに関する様々なことを、分類しながら書き連ねていきます。

竹中労さんの創価学会への共感と反感

インターネットの社会において、必ず騒動を巻き起こすキーワードというものが存在します。一つは思想的な左右に関するもので、「ウヨ(右翼)」「サヨ(左翼)」に派生して様々な言葉があります。また日本における民族問題を象徴するような沖縄に住む人や在日韓国朝鮮人をやゆするような言葉、さらにあるのが今回の題材である宗教に絡む特定の団体についての言葉、その中でも「創価学会」に反感を持っている人によって書かれた言葉もネット上にはあふれています。

ここで、ちょっと竹中労さんにからめてそれらの言葉を眺めてみると、竹中労さんが活躍していた当時は保守勢力からは左翼過激派の黒幕と目され、反対に一部の左翼からは竹中労は右翼と結託したと言われていました。さらに在韓被爆者についてのルポルタージュを書くなど、在日韓国朝鮮人に寄り添った活動もし、当然沖縄には過分な思い入れがありました。週刊誌報道で創価学会についての醜聞が書かれた事についてその反論記事を書き連ねたり、今回紹介する創価学会の初期の学会員に取材した「聞書 庶民列伝」を月刊誌「潮」に連載するなど、竹中労は創価学会に取り込まれたのではと思う人がいても仕方がないような活動もされてきたのです。そういう意味では誰からも叩かれる材料を広く拡散させながら色々な仕事をしてきたわけで、そのエネルギーには私などはただひれ伏すしかありません。

過去の竹中労さんの書かれたものを読むと、反創価学会キャンペーンを展開した人々を大いに批判し、さらにそうした文章の中には創価学会の池田大作会長を褒め称えるかのような内容があることから、創価学会に拒否反応を示す人からすると、まさに創価学会に取り込まれた御用ライターという一面もあったのかというような印象を持っている人もいるかも知れません。

ただ、そこまで創価学会に食い込んでいればもう少しお金は入っていたでしょうし、その後の書くものも変わっていたと思われます。竹中労さん自身は「アナーキスト」と称していますが、世間一般が言う所の「アナーキスト」とはずれているかも知れませんが、どんな権威にも屈せずに言いたいことを言う自由な精神を持って「聞書 庶民列伝」を含む創価学会にも対してきたのではないかと私は思っています。

そもそもこの「聞書 庶民列伝」という書物はどういう書物かというと、現在の大掛りに組織された創価学会ではなく、かなり過激に活動をしていた初期の創価学会の活動について、創価学会初代会長・牧口常三郎についての話や、当時の最前線で活動していた学会員に取材したルポルタージュとでも言うべきものです。そこにあるのは、原点回帰と言うべきものなのか、創価学会ができた当時の過激な行動を思い出せというメッセージそのものです。

当時はあまり外から創価学会を見ている分には、創価学会と公明党の関係を見るにつけ、その結びつきは強いと思うばかりで、竹中労さんのやっていることがいまいち良くわからないという人もいたかも知れません。しかし、公明党が自民党との連立内閣に入り、創価学会が主張している不戦世界を目指すことや、核兵器廃絶という理念を破りかねないような選択に公明党が舵を切りつつある中、創価学会の一般会員の中でも政府の安保法制に反対するデモに参加するような「造反者」が出るようになりました。「上に向かって堕落」するかのような党中央への批判の眼を持ちつつ、逆に一般の学会員には共感し、庶民信仰には味方すると言い、創価学会が結成された時の理念に戻れと会員を鼓舞する竹中労さんの思想というのは、現在の創価学会の会員の中にも理解する方は少なからずいるのではないかと思われます。

竹中労さんは何をやった人かということを明らかにするのがこのブログのテーマでもあるのですが、ルボルタージュをはじめとする物書きである以外に社会を変革する運動家としての面があったという事は確かです。意地悪な見方をすると党中央や創価学会の幹部は批判するのに、なぜ池田大作会長だけを持ち上げているのか、やっぱり何かあるのかと思われるのかも知れませんが、他の大勢で決まったことであっても、会長さえ動かすことができれば状況は変わると考えての運動家らしい工作だったかも知れません。まあ、この点については、創価学会も自分らをうまく書いてくれるルポライターだと竹中労さんの事を思っていたのかも知れませんし、この辺の駆け引きというのは興味深いですね。

その後の創価学会は、先述の通り当時の若手であった人達が中心となり、政権の中にいることこそが大事だという方向に進み、公明党も創価学会も創価学会の原点にある考えとは違った行動を取ろうとしています。竹中労さんがもし今でも健在だとしたら、組識の中枢にいる人よりも、自由な発言を封じられた中で行動を起こした造反者の方に温かい眼差しを掛けたことでしょう。

竹中労さんは何のために刺青を彫ったか?

竹中労さんの年譜を紐解くと1981年と言いますからだいたい50才の時に背中に刺青を彫っています。この文章を書いているのは2016年ですから35年も前のことで、さらに竹中労さんもお亡くなりになっているので、いい悪いという話ではなく、何のためにで刺青を彫ったのかという点について竹中労さんが過去に書かれたものを紐解きながら考えていこうと思います。

日本人と刺青との関係は海外でのそれとは違って、昔からあまりイメージのいいものではない傾向にあります。そうした中で、どうしても竹中労さんがヤクザなのかと考える人が出ても仕方ありません。さらに、刑罰のために刺青は彫られたこともあったので、竹中労さんが何か悪いことをしたのか? という疑問を持たれる方もいるのではないかと思います。

その答えを探る前に、竹中労さんに刺青を彫ったのは誰で何を彫ったのかということを書いておきますと、画家の凡天太郎さん(一般的には「梵天太郎」と表記する場合が多い)が竹中労さんの肩から背中いちめん、更に太ももにかけて、「打鬼花和尚」魯智深の姿を彫っています。この人物は中国の小説の中でも四大奇書の一つとして名高い『水滸伝』に出てくる登場人物の豪傑です。その姿がどんなものか知りたい方は、ぜひネット検索で「魯智深」で画像検索をしていただければと思います。もしかしたら、その姿に竹中労さんと重なるものがあると感じる方もいるかも知れません。

また、刺青を彫った凡天太郎さんは紙芝居や劇画の世界でも活躍した方で、刺青の世界ではそれまでの刺青とは違う芸術的な刺青を彫る革命児として評価された方です。昔からのしきたりで彫ったようなものでなく、芸術作品としても評価されるべきものであったことは、凡天太郎さんが彫られたという事だけでも想像できます。

その上で刺青を彫った理由について、竹中労さんがその凡天太郎さんと「刺青を入れるのに我慢できるかできないか」という話になってのなりゆきでと、おおよそ普通の人が刺青を入れるのには考えられない理由からだと書いています。わかったようでわからないような理由ですが、このブログでも何回か引用させていただいている「三酔人TV談語」の中で、こう続けています。

——————————————————————————–
ご隠居 ニュアンスを変えて言えば、お道楽にすぎない。どれだけ苦痛に耐えられるかと、『戒厳令の夜』でオチコンダ、腑甲斐のないおのれを責めてみた。つまり、悪いことをしたからなのさ。
右兵衛 ものの哀れ、ですな。
左太郎 大圏仔(タイクンチャイ)、香港の紅衛兵やくざと盟約をしたとか?
ご隠居 事実、それもあった。『三国誌』風に言えば”桃園の誓い”、だがそれはしょせんツケタリ。
(単行本「人間を読む」てれびだんご9 喧嘩屋 閉店つかまつります 247ベージから引用)
——————————————————————————–

当時の香港のアウトローに現地取材するような場合、確かに水滸伝で人気の豪傑魯智深を背負っている竹中労さんに相手も一目置いたことでしょうが、現在においても刺青にはそれだけの効果があることも確かです。その反面、日本では公衆浴場からも追い出される厳しい立場に追い込まれもします。暴力団追放運動の高まりの中、刺青をしている人に世間は冷たいというのは当時でもそうだったでしょう。それを50才を過ぎてから、単に男の意地で彫ったという竹中労さんの書いたものを信じるのは難しいかも知れませんが、何のために彫ったかということはある程度わかったとしても、何故彫る決心をしたかという点について、そこまで竹中労さんの心の中を明らかにすることは難しいとしか言いようがありません。

ただ、一つ言えることは、この刺青を彫ったために竹中労さんはその命を縮めたことだけは確かだということです。後年書いたものの中で、内臓に疾患を負った原因について書いたものを読んでいくと、映画「戒厳令の夜」の南米ロケで地方の風土病にかかったという話はよく知られています。さらにその「戒厳令の夜」に関する後悔から刺青を彫ったのだとすると、病み上がりの状態でかなり体内にも影響があったと思われます。当時も刺青を入れることについて強く反対した人もいたかも知れませんが、本人の意志が固ければ翻意することは難しいこともわかっていたでしょうし、その点においては覚悟しての刺青だったのだと思うしかありません。

私のように遅れてきたファンや、亡くなった後に竹中労さんの事を知った人にとってはもう少し体をいたわって長生きして欲しかったと思う人も少なくないかも知れませんが、我を張る生き方を通す生き方そのものが竹中労さんの魅力でもあるわけです。ちなみに、この刺青は有志の呼び掛けによって公開されたことはありましたが、見せたのはその一回のみだったということです。

竹中労さんがインターネットを使っていたら? その3 ネット荒しへの対応?

インターネットに関するいざこざというのは古くはパソコン通信の世界から存在し、実際に面と向かって話すのとは違い、匿名で発言できるだけでなく、感情の赴くままスマホから直に発信してしまう事ができるようになったことで、騒動の種は増えるにしても減ることはないでしょう。

インターネットにいくらかの意見を発表するにあたり、活字媒体しか広く世間に訴えることができる手段がなかった時代とは違い、誰でも自分の意見を発表することもできますし、そうした意見に対する反論を述べることもできるのですが、その反論の内容がどんなものかによってまともに回答しようと思うのか、ネットから反論をする人の多数がこんなものかとネットへの発信自体に幻滅するか、それは発信する人のネットというものへの認識によって変わってくるかとは思います。

これから紹介するのはネット上の事ではありませんが、元・現代の眼の編集長、丸山実氏が新たに起こした月刊誌「新雑誌X」を助けるために、原稿料なしでもと書かれたコラムの中の一つ、「音曲・風見鶏(ウェザーリポート)」で、竹中労さんのペンネームでもあった夢野京太郎名義で書かれたものです。

連載は2回目まで順調に進みましたが、その2回目の内容に異議を唱えるような読者からの投書がきっかけになり、夢野京太郎が執筆を降り、それを竹中労さんがとりなす形で第3回目が書かれたものの、以降「音曲・風見鶏」は復活することはありませんでした。個人的には竹中労さんの書く音楽コラムが読めなくなったことは大変なショックでしたが、あくまで「夢野京太郎」の筆という設定の読者を叱り飛ばす文章に、さらに竹中労さんに対する興味が生まれたのも確かでした。

では実際のところ、どんな投書があったのかと言いますと、改めて竹中労さんが紹介する投書の内容を見ていくと、現代のネットにおけるコメントでブログの元発言に対してご意見を挙げる内容に似ていて、「真梨邑ケイ、FTV深夜番組の司会をやってるコ、ジャズ・シンガーだったのねあれ」という夢野京太郎名義の文章に対しての反応がこんな風に返ってきたのです。

【FTV深夜番組というのは、「オールナイト・フジ」のことでそうだとすれば、司会をやってる女の子は、秋本奈緒美なるジャズシンガーです。ちなみに、彼女の歌は確かに未熟だが下手ではありません】

この投稿者が指摘するように、当時のフジテレビの深夜番組に出ていたジャズ・シンガーということになると、多くの人に知られていたのは「オールナイト・フジ」の秋本奈緒美さんであり、これはもしかしたら竹中労さんが勘違いをしたのかと私自身も思ったことは確かです。しかし、元の竹中労さんの文章を読めばおわかりの通り、竹中労さんは具体的な番組名を出しているわけではなく、単にFTV(フジテレビ)の番組としか表記していません。

ネットでもこうした微妙な言い回しに対して、「フジテレビの深夜番組とは「オールナイト・フジ」のことですか?」と聞くことをしないで、「あのおじさん、もうろくしてるのか秋本奈緒美と真梨邑ケイの区別が付かないでやんの」というように尖った反応をする人は少なからずいるでしょう。さらにひどいのになると、竹中労さんが左翼であることを言っていることに対して拒否反応を示し、アナーキストも日本共産党も赤軍も中核派や革マル派も、日教組も全て同じ穴のムジナだと思考停止をしたかのような糾弾を繰り返したりするかも知れません。

この投書に対して竹中労さんの書く夢野京太郎さんは案外きちっと反論しています。

「真梨邑ケイも以前に、FTVの深夜番組に出ていたことがある。調べもしないで、半可通なことを言うな。未熟はつまり下手、ヘタだが将来性はある・ということは間々あっても、未熟だが上手だということは断じて、ナイ」

今さらですが、ここで話題になった秋本奈緒美さんはどうなっているかというと、ジャズシンガーだったことを知っている人はいるかも知れませんが、今ではすっかり2時間サスペンスドラマでおなじみの女優さんとして活躍なさっています。真梨邑ケイさんについてもジャズシンガーの肩書は外してはいませんが、セクシー系を含む実に様々な女優としてのお仕事をしたり、週刊誌のグラビアを飾る仕事をしたりと、芸能界にそれぞれの居場所を探してその活躍は続いているものの、歌手として専業にすることはご自身の事を考えてあえてしなかったのではないかと思われます。それは彼女らの芸能界での生き残りを掛けた聡明さであり、非難されるものではありません。ただ当時ジャズ・シンガーとして人気が出て一時は活躍したとしても、その歌が本物かどうかをはっきりと断じた竹中労さんの耳の確かさを示す結果になっています。

さらに竹中労さんが穏やかながらも辛辣に読者に対して言い放った一言は、物書きとしての覚悟を発したという点において私の好きなフレーズです。

「[あら探し]なんてことは卑劣な精神の所産で、私・竹中労とても、そんな読者は必要ないと言い切るだろう。」

このケースでは薄っぺらい月刊誌である「新雑誌X」を当時としては高値の500円を出して買って読んでいる読者に対してもこの言い方だったわけですから、通信費は誰かが出しているとしても親に通信料を出してもらい実質的に無料で読んだ上にあら探しの卑劣な書き込みを連投する輩に対しては、その怒りは更に高まったのではないかと推察するのです。

というわけで、もし竹中労さんが今に生きていてブログを書きたいとおっしゃった場合、まずは雑誌に書いている以上に書いている内容についてアラ探しをしたり、書いている内容とは無関係な暴言を書く「荒らし」が来るかも知れないからとコメント欄を作らないことをおすすめすると思います。まあそれでもメールで投書してくる人はひっきりなしに出てくると思うので、そうした反論にもなっていない反論をご本人にそのまま見せたらブログ自体を投げ出してしまう恐れは多分にあるでしょう。それはそれで仕方がないとあきらめるのが普通ですが、とにかく粘り強くブログを書いてもらうようにお願いできるだけの人が周りにいるかどうかが竹中労さんがネットでの発信を続けられていたかどうかの分かれ目になったことは間違いなさそうです。

竹中労さんは何故日本のフォークが嫌いなのか?

竹中労さんが亡くなる前に入れあげた「たま」を輩出したTBSの「イカ天」には様々な種類のバンドが出演していました。そこから出てきた若いミュージシャンを見る竹中労さんの目は全般的に優しかったですが、その反面既存のフォークやニューミュージックのアーティストについて、かなり厳しい目で見るだけでなく、露骨に嫌味を言うような書き方をしている場合があります(例えば、「さだまさし」を「ださまさし」というように)。

これは一体、どういうところに原因があるのか、ちょっと考えてもわからないと思われる竹中労さんが好きでなおかつフォークやニューミュージックも好きな方もおられると思います。そこで、ここでは竹中労さんが過去に書かれた文章を当たってみて、その原因と思われる点を検証してみようと思います。

私自身が竹中労さんの文章を読んでいて、確かそのような事が書いてあったと思った件があり、改めて竹中労さんの本をあさっていて何とか見付けることができたのが、竹中労さんが亡くなってすぐに出た単行本「無頼の墓碑銘」の中にある「ニューミュージックマガジン」初出の文章がそれに当たりますので、当該部分を引用して紹介します。長い文章を引用するのは気がひけるので、その前に書かれていることを要約して紹介すると、あがた森魚氏の「赤色エレジー」という曲について書かれているコラムの事でした。この曲はあがた氏自身のデビュー曲で、当時「コッペパンを噛りながらのどん底生活の中で、この曲をつくりました」(この部分は「無頼の墓碑銘」の中から引用)とご本人が言ったといいます。

となると、現在の「赤色エレジー」のクレジットはどうなっているのかということが気になりますが、上記のあがた氏の発言が真実ならば当然、「作詩・作曲 あがた森魚」になっているはずです。しかし、私がネットで調べた結果、作詩はあがた森魚氏ですが、作曲は「八洲秀章」となっているのです。

当時の状況をご存知の方もいるかとは思いますが、実はこの「赤色エレジー」については、伊藤久男さんが歌った「あざみの歌」(1951)に似ているのではないかという盗作疑惑騒動があったのです。「あざみの歌」も「赤色エレジー」もYouTubeや音楽ストリーミングサービスを利用すればその内容にあたることができると思いますので、興味のある方はぜひ聞き比べていただければと思いますが、個人の考えはどうあれ、多少違うから大丈夫ということにはならなかったようです。結果として「あざみの歌」の作曲者である「八洲秀章」の名前がそのままクレジットされることになったというわけです。

竹中労さんの考えとしては、似てしまったものは仕方がないわけで、それなら上記のような言い訳でなくはじめから「あざみの歌」を意識して作ったとか、無意識に過去に聞いた「あざみの歌」をなぞるような曲を作ってしまったとでも言えばいいというような事を書いています。もしこれが特許の世界ならば、基本的な特許を登録した人がいた時点で同じ特許を使った製品を出す場合は特許料の支払いが必要で、後からそれをアレンジしてさらにいいものに仕上がったとしても、無許可で製品を出し金儲けをしたとすれば、多額の賠償金を請求されることになってしまうでしょう。また学者の世界であれば論文を盗用したことがネット民の検証でばれてしまい、人生を変えるほどの転落へとつながった事件があったことを思い出す方もあるでしょう。「赤色エレジー」は当時60万枚を売リ上げる大ヒットになってしまったことで騒ぎが大きくなったところはあるかも知れませんが、この件についても何やらお金にまつわるきな臭さが漂おうとも言うものです。

——————————————————————————–
フォークの世界に、ぼくが愛想をつかしたのはこれだ。『よこはま・たそがれ』山口洋子のレベルまで彼らは退廃している。
(「無頼の墓碑銘」188ページ 「サハルヘカラス」より引用)
——————————————————————————–

そのような盗用疑惑にはっきり答えない歌手の存在があったことでそのジャンル自体に愛想をつかしたということがここで明らかになっていますが、後半部分は当時の時代を知らない方にとっては、ここに来て急に五木ひろしさんのデビュー曲、『よこはま・たそがれ』を作詩した山口洋子氏がなぜ出てくるのかわからない方もいらっしゃるでしょう。

五木ひろしさんは竹中労さんも審査員として番組に参加していた読売テレビの「全日本歌謡選手権」から再デビューしたことでも知られていますが、その際に強力な後ろ盾になったのが作詩家の山口洋子氏で、再デビューにあたって所属したプロダクションは山口氏の知人である野口修氏が経営していた当時はキックボクシングの沢村忠で有名だった野口プロモーションでした。その後、竹中労さんは全日本歌謡選手権の審査員を降りてしまうわけですが、その一つの原因が今回紹介する問題であったのかも知れません。

問題になったのが『よこはま・たそがれ』の歌詞について挙がった盗用疑惑です。アディー・アンドレというハンガリーの詩人の「ひとり海辺で」という作品に山口洋子氏の歌詞がよく似ており、完全な山口洋子氏のオリジナルではないのではないかという指摘があったのです。この件についてはかつて「週刊文春」編集長だった花田紀凱氏が竹中労さんの反応まで詳しく書いていますので、興味のある方は【山口洋子の「よこはま・たそがれ」は盗作だった。】という題名でネット検索して読まれてみるといいかと思います。

このように、しれっと他人から作品やアイデアを拝借して自分のもののようにして発表するような流れが当時の歌謡界にはあり、その流れの中にフォークやニューミュージックが巻き込まれた時点で、竹中労さんはこれらのジャンルについて見限ったと見ることができるでしょう。今回名前を挙げた歌手のファンの方からすると気分が悪くなる話かも知れませんが、事実は事実として受け止めることも大事です。特に今の世の中はネットですぐに検証され、盗用疑惑の段階でもネット炎上のような盛り上がりになる社会です。これから出てくるであろう多くのミュージシャンや作詩・作曲家も、作品として公開する前に過去に同じような作品がないかということについては十分に検証した上で発売するなど、疑われる事すらもしない方がいいと私は思います。

竹中労さんの言葉は何故若者を魅了するのか? 音楽の発言から見ると

竹中労さんの書く文章の内容は、今後このブログで紹介するにもどこから紹介するか困ってしまうほど多岐にわたりますが、その特徴の一つは同世代の人だけでなく、当時の竹中労さんからするとかなり世代が下の層にも受け入れられたということがあります。お亡くなりになる前に書いた「たまの本」を読んでファンレターを送ってくれた人の最年少記録は、小学校高学年の子だったと当時竹中労さんに近い人から聞いたことがありますが、何故小学生にもファンレターを出さずにはいられないような文章を書けたのでしょうか。

この点については私が竹中労さんの存在を知った時にはいわゆる若年層だったということもあるので、自分の経験も入れながらその理由について考えていきたいと思います。「たまの本」を挙げさせていただきましたので、今回は主に「音楽」に関する発言や文章について見ていくことにします。

普通の人が初めて音楽に自分から触れるのは、親や周るの大人が特別に音楽好きで、それなりの教育のために聞かせているという稀なケースを除き、常に家庭の中にあるテレビの歌番組やアニメ、ドラマ、テレビで放送される映画からというのがほとんどであるでしょう。ただテレビというのは玉石混交で、子ども向けとは言ってもアニメや映画の中でも決して正統派とは言えないヘンな音楽があり、なぜかそういうものに興味が出てくる場合があります。

その点について、自分の興味を押し付ける気はありません。ただ、私が過ごした静岡市周辺で小・中学生として暮らし、その体験をそのまま自らのプロとしての音楽活動に生かしているのではないかと思われる人たちが実際にいたので、そうした権威にすがって一つの事例を紹介しようと思います。その「権威」とは今では音楽シーンだけでなく映画やバラエティ番組にも一部進出している「電気グルーヴ」のお2人です(^^)。

彼ら電気グルーヴがかなり前の話になりますがメジャーデビューすぐに深夜ラジオのパーソナリティを行なうことになり、たまたま私が深夜に聞いていたのですが、番組の中で自分達のお気に入りの楽曲を紹介する中で、これも当時のベスト10には全く入らない類の楽曲ではあるのですが、かなり異質なポップスとして彼らが好きになるのも納得という曲がありました。それが香港映画「Mr.B00!」の、日本語や英語の曲を聞き慣れた耳にとっては少し変な、中国語をロックに乗せたテーマ曲だったのでした。私自身もゴールデンタイムのテレビで映画の日本語吹き替え版が何度もやっていたのをよく見ていましたので、吹き替えによる映画の内容とともに、その奇妙な主題歌は面白いと思っていました。

ただ恐らく映画が公開された当時、例えばクレージーキャッツやドリフターズの楽曲と比較して素晴しいと評価する音楽評論家など皆無だったのではないかと思うのですが、少し時間が経って、竹中労さんが「Mr.B00」の主題歌を評価しているのを読んでびっくりすると同時に大いに感心した事があります。その部分をここで紹介しましょう。

——————————————————————————–
ご隠居 許(ホイ)・ブラザーズも『ミスターBOO』の主題歌なんか、かなりのものだったが。
左太郎 『ドリフターズ・ソング』ですか?
ご隠居 そう、スチャラカ・ロックの一級品であったわけだけれど、香港製だからと日本の若者は乗ってこないのだ。
左太郎 それも、差別なんですねえ。
(テレビ談語 第2回「テレビは、地球をダメにする」 単行本「人間を読む」(幸洋出版)202ページより引用)
——————————————————————————–

ここで述べられているのは、当時まだ「ワールドミュージックブーム」が起こる前から、日本の聴衆や評論家があくまで評価するのは欧米の音楽が中心で、アジアなど当時の日本人が見下していて(日本人が「名誉白人」だなどという言い方もあった時代です)、世界各国あまたある地域の音楽についてもまともに聞いて評価する土壌が皆無だった事について憤っているということもあるでしょう。

そのような当時の音楽状況など全く知らなかった当時の若者世代よりさらに下の世代である電気グルーヴの二人が、結果として評論家の言う事など全く気にしないで面白いものは面白いと思いながら音楽活動を続けていくうちに、さらに面白いものが生まれ、メジャーでも成功を収めているというところもあるわけです。

何でもそうですが差別というものは物事の本質を見失ってしまうものです。どんな軽蔑すべきものと思うことがあっても、まずは体験してみてから良し悪しの判断を下すことで、見えてくるものは大いにあるのではないかと私は竹中労さんのこの文章を目にして教えられたような気がします。

そこで、しみじみ思うのは、竹中労さんは音楽についても事前に偏見を持って聞いたりせず、良いものだと感じたら他人の目を気にすることなく褒めるという立ち位置にいたからこそ、若者からの信頼を勝ち得ることができたと思えるのです。

竹中労さんが肩入れした「イカ天」の審査員の中には、楽器を演奏するについての技量についてのみ判断し、あくまで上から目線で話すような方もいたのですが、竹中労さんも審査員として番組に出ましたが、その時に感じたのは目線を下げ、テクニックよりも魂の叫びが感じられたり、何より楽しくバンド活動をやっているところを評価していたように思います。

音楽について判断する耳の良さということだけではなく、音楽を聞く前の段階として、どんな事でも差別しないで評価するという姿勢というのはやはりさすがで、こんな人は今の音楽シーンを見渡してもなかなか見付けることができないからこそ、今も様々な場面で語られているのではないでしょうか。

過激派としての竹中労 その4 「湿った火薬に火をつけてみよう」竹中労さんの反論

「湿った火薬 小説革自連」が発表された1984年の4月17日に書かれた竹中労さんの文章があります。元々は丸山実氏が発行した月刊誌「新雑誌X」1984年6月号に掲載されたのち、単行本「人間を読む」(幸洋出版・1985年)に収録されている「湿った火薬に火をつけてみよう」という題名の付いた文章です。

人間を読む

まず最初に、竹中労さん自身の筆で、内容についてこれは違うと思われた点について言及されています。私自身も小説の中の登場人物・野上功は竹中労をモデルに書かれていると書きましたが、この野上功という人物はあくまで「作者にとってかくあるべき姿」に描かれているに過ぎないもので、断じて野上功は竹中労ではないとのこと。さらに、そこでは一般の人が感じがちな”無頼の伝説”に重ね合わせた性格にすることで、竹中労はこういう男だという印象操作が仕掛けられていることがあまりいい気はしないようで、竹中労さんはこうしたやり方を品の良くない手口だとバッサリ斬っています。

私自身は竹中労さんの姿というのは頻繁にテレビに出だした頃の時には好々爺とも映る姿しか直接は存じ上げませんが、実際に若かりし頃の竹中労さんの姿を見ていたわけではないので、こういった本があればその描写をそのまま竹中労はこんな人であったと信じてしまう人もいるでしょう。この辺の事情については、改めて当時関わりがあった方にお話を聞きたいところです。

さらに、前回紹介した映画「戒厳令の夜」のプロデューサーとなり、スポンサー企業が倒産した時期が実際にあった時とかなりずれているということは、すでにこの時点で竹中労さん自身が指摘していますし、竹中労さんの言う、革自連の運営から離れたわけについてもこの文章の中に説明があります。

当時の年譜を見ると、1977年の前の年にキネマ旬報での連載「日本映画縦断」を突然打ち切られたことで、翌1977年の6月に「キネマ旬報裁判」が始まっています。また同時期の年譜の記載には、週刊読売に連載していた「ヱライ人を斬る」に関する訴訟を和解という形で終了させています(年譜への記載はこちらの方が先)。この流れについては、竹中労さんは五木寛之氏から、「二つも裁判を抱えたら死んでしまいますよ」(幸洋出版「人間を読む」83ページより)と忠告されたことで先に週刊読売の裁判を終わらせ、本格的にキネマ旬報と戦うための準備をする中で革自連の運営からは手を引いたと説明しています。

そうした裁判闘争の中、革自連が出した候補者である俵萠子氏の応援演説に出掛けたというのは前回の紹介の通りで、さらに選挙カーに映画監督の大島渚氏と一緒に乗ったという話も書かれています。これらのことは、竹中労さんは運営からは手を引いたものの、運動から降りたつもりはなかったということの何よりの説明でしょう。

ここでさらに竹中労さんが書いていることで、本当ならひどいなと私が思うのは、「革自連」結成にいたるあらゆる資料は竹中サイドには届けられず、革自連における竹中労という存在が完全に抹消されていたということです(ウェキペディアの「革自連」の項にも竹中労さんの名前はこの文章を書いている時点では見付けることはできませんでした)。「湿った火薬」の中で著者が書かれているように、発起人の中に竹中労という名前があると協力してくれない人が出ると恐れたということはあったのでしょうが、いくら嫌な人物と思っても資料を送るくらいの度量が著者側にあった方が良かったのではないか(この辺は竹中労さんの書かれた内容にのっとって書いています)と思うのですが。

最後に改めて竹中労さんが本当に80年代始めまで共産党にいて革自連の内幕を密告していたのかという疑問については、「竹中労・無頼の哀しみ」の中で引用させていただいた部分だけ見ただけでは、矢崎氏の言葉は後出しジャンケンではないかという不信も拭い切れぬところもあります。著者の木村聖哉氏が竹中労さんが共産党にいたことを否定できない理由のひとつとして、「不破哲三は茶化すことはあっても、共産党を真正面から攻撃する文章は発表していない。」(「竹中労・無頼の哀しみ」142ページから引用)という記述がありました。

この理由について、書かれた時期が微妙な分答えになっているかどうかはわかりませんが、以下の文章を紹介しようと思います。先に引用した文章が載っているのと同じ「人間を読む」の中から、1983年6月「新雑誌X」創刊準備号に掲載された、一見三名の対談のようであるものの、実は竹中労さんが単独で全ての出席者の言葉を書いて対談風にまとめた読み物、「三酔人TV談語」の中から日本共産党を揶揄しているのではないかと思われる部分を紹介して、この項を終わりにしたいと思います。

——————————————————————————–
左太郎 これ(引用者注 NHKドラマ『おしん』のこと)はようするに、いま幸せであると言う話なのダ。昔は暗黒であった、人民は餓えていた、封建遺制のくびきに繋がれて、牛馬の扱いだった、大根メシだった。戦争を再びくりかえしてはならない、日本共産党に投票しましょう(爆笑)。
右兵衛 餓えなきゃ、戦争やってもよいのダ。
ご隠居 ”共に幸せを産み出す党”なんだってねえ。
一同 イッヒッヒ。
(「人間を読む」・三酔人TV談語・抄 186ページから引用)
——————————————————————————–

過激派としての竹中労 その3「湿った火薬 小説革自連」で描かれた竹中労さん

手元に「湿った火薬 小説革自連/中山千夏・矢崎泰久」の単行本があります。たまたまアマゾンで検索を掛けたら大変リーズナブルな価格で売りに出ていたので注文し、このエントリーを書くために一通り読ませていただきました。

湿った火薬

「革自連」とは「革新自由連合」の略で、1977年の参議院選挙で議席を獲得し、政界のキャスティングボードを握ることで、当時の自民党中心の政治状況をひっくり返すために組織された団体です。「湿った火薬」はその創成期の様子を描いた小説なのですが、竹中労さんは旗揚げの前からその運動に関わっていて、本の中でも「野上功」という名前で登場します。著者はそのあと書きの中で、この物語について以上のように書いています。

——————————————————————————–
これは、革自連の六年を生きた私たちが、その創成期の経験をもとに創作した物語だ。
(「湿った火薬」356Pから引用)
——————————————————————————–

ただ、前回にも紹介したように、竹中労さんの評伝「竹中労・無頼の哀しみ」で著作の木村聖哉氏は評伝を書くにあたって矢崎泰久氏に聞いた話として、「湿った火薬」について矢崎氏がこう言われたということをそのまま書かれています。

——————————————————————————–
「小説」と銘打っているが、矢崎さんの言によると、「書かれていることはほとんど真実」だという。
(「竹中労・無頼の哀しみ」113ページから引用
——————————————————————————–

出版物として出された時と、後日の話というとになると、当然後の方が矢崎氏の本音を述べていると捉えるべきでしょう。そこで、改めて「湿った火薬」の内容について読んでいくと、野上功という小説上の人物とは言いながら、竹中労さんとおぼしき人物は居丈高で自分勝手な「トップ屋」とでも言うべきアクの強いルポライターとして描かれています。

革自連を作って状況を変えるという思想自体は矢崎氏も共感するところはあるものの、野上が革自連に関わっているということがわかると、それだけで協力を取り付けられなくなる人が多く出る可能性があるとして(このあたりも胡散臭い人物としての描写につながる設定ですが)、革自連の構想を最初に話し合った作家の花田一水(五木寛之氏)とともに、革自連からの「野上はずし」が行なわれたとされる顛末についても書かれています。

その手段として提示されたのが、五木寛之氏の書かれた小説「戒厳令の夜」の映画化で、本文の記載に即した形で書くと、映画製作というオモチャを与えられた竹中労さんはやすやすとそれに飛び付いたとされています。

そこからしばらくは映画製作に没頭していたものの、正式に革自連が動き出し、十人の立候補者が発表されたのを受け、そのあまりの最初の構想からの変わりように腹を立て、革自連の事務を行なっていた矢崎氏とばばこういち氏を前にして、周りの迷惑顧みず二人を怒鳴りつける場面が出てきます。それは、単なる革自連の候補者が当初案とはかなりかけ離れた人選になってしまったからというわけではなく、自らの事情に関するやつ当たりも含まれていたと暴露されます。野上功が製作するはずの映画のスポンサーだった企業がその日に倒産して、映画製作が窮地に陥ったからだとその場に同席したことになっている白井佳夫氏の言葉を借りながら語られるのです。

この場面を読んだだけでは、参議院選挙とは関係ない映画製作という別件がうまく行かなかったことにかこつけてヒステリックに感情を爆発させたひどい人と思われても仕方がないでしょう。さらに前回のエントリーでも書きましたが、竹中労さんが1980年代前半までは日本共産党にいて革自連の情報を流していたということになれば、単にヒステリックに仲間の情報を「売った」裏切り者として、本当に「竹中労が関わるなら自分は降りる」という人が多数を占めるくらいに業界の嫌われ者となってしまっているのではないかという感想も出てこようと言うものです。

しかし、「書いてあることはほとんど事実」だとしても小説は小説です。そこでこの文章を書くにあたりネット上に挙がっている「竹中労・年譜」を改めて調べてみました。

http://y-terada.com/Takenaka/nenpu/NENPU.HTM

内容を詳しく見たい方は上記ページのリンクをたどっていただければいいと思うのですが、この年譜の原本は竹中労さんが亡くなった後に開催された「竹中労 別れの音楽会」に参加された方に主催者側から配られたパンフレットの中の年譜の記載をそのまま写したものです。年譜を作られた大村茂氏が故人となっているため改めてその内容についてお伺いすることはできませんが、この内容について参議院選挙の行なわれた1997年を中心に見ていくと、明らかに時系列がずれた事実があることがわかりました。

小説では革自連の候補者発表とほぼ時を同じくして野上功の映画スポンサーが倒産したことになっているのですが、「戒厳令の夜」のスポンサーだった株式会社マリンフーズが倒産したのは1979年になってからです。また、1977年は革自連から立候補した俵萌子氏の選挙応援をしたことも年譜には書いてあります。

というわけで、竹中労さんが激怒したのは多少は映画製作がうまく行っていなかったこともあったのかも知れませんがそれは決定的なものではなく、純粋に当初の計画から理念も候補者も変わってしまったことへの憤りだったのではないでしょうか。それでもなお、その怒りの標的となった革自連から立候補した候補についても、浮世の義理ではあるにしても応援演説に立ち、自分が言い出しっぺになった運動に対しても放り投げていないことがわかります。もしかしたら、そうした流れの中で竹中労さんが共産党の国会議員に革自連はもうダメだ的な事を言ったのかも知れませんが、私には竹中労さんがスパイのような真似をして逐次共産党員としての任務を全うしていたようにはとても思えません。この辺りの事については、今後竹中労さんの行なった事をいろいろ書いていく中で、読まれている方が判断していただくのが一番いいだろうと思います。

さらに、「湿った火薬」について竹中労さん自身が書かれた物があります。今回のような当時の事も良く知らない私よりも的確な反論が書かれていますので、次回はその原稿の内容について詳しく紹介させていただきたいと思います。

チャーリー・パーカーと沖縄島唄の関係性を探る

私自身がこれほど竹中労さんにのめり込むことになってしまったというのは、実のところ竹中労さんの思想というよりも音楽の趣味の良さを先に好きになったからということがあります。でも、最初の頃はなぜ美空ひばりや沖縄島唄がすごいのかということはわかりませんでした(^^;)。前者については、単に若い頃の音楽の趣味が洋楽中心だったため、日本の演歌なんて古臭いものはという感じで全く聞く耳を持っていませんで、後者の方はというと、小さい頃からの私の聞いていた音楽ジャンルというのはポップなものばかりで、言葉もわからず音階の関係からどの曲も同じ曲に聞こえてしまうという、当時は全く耳が肥えていなかったという事は言えると思います。

そんな私の状況と竹中労さんを結びつけるというのは無理な話ではあるのですが、竹中さんが「たまの本」で書いているご自身の音楽遍歴を読んでいると、その足跡をたどることはできます。学校の音楽の成績は全く駄目だだったものの、少年の頃に声帯模写をした川田義雄(この方はまだ幼い美空ひばりさんとの共演も多い師匠にあたる方です)とあきれたぼういずや、エノケンこと榎本健一の歌っていた曲というものが竹中労さんの原体験として体に染み込んでいたというのは実に興味深いことです。

おそらく少年の頃というのはそれが何物かもわからず、ただ面白いものの真似をしているに過ぎないのではないかと思うのですが、後になってそのルーツがわかった時、さらなる興奮を覚えるものです。竹中労さんにとってのその時とは、軍国少年として戦時中に軍の施設で働いていた時に、かわいがってもらった青年将校に蓄音機で聴かせてもらった当時は敵国だったアメリカのジャズがそれでした。戦前の浅草の芸人達は、こぞってジャズを自分なりに崩してネタにしていたのですが、その原曲を初めて知ることによって、戦後にジャズをおおっぴらに演奏したり聴けるようになると、まるでスポンジが水を吸うように新しいジャズを聴き込んで行ったというのは想像に難くありません。その中でも一番の実力と人気を誇ったのが、竹中労さんが「神」と崇めた「チャーリー・パーカー」だったのでした。

実際にチャーリー・パーカーの音楽を聴いた方はおわかりかと思いますが、そのメロディ自体はとてもとっつきやすく、メロディを含むテーマの後に繰り広げられる彼の自由闊達なソロは必死に聴いて何とかわかるというようなものでは決してなく、あくまで自然に聴く人の耳に入ってきながらもその真似できない凄さがわかるという感じでした。私のチャーリー・パーカー初体験は、日本人のジャズマンが彼の曲「ドナ・リー」を演っていて、演奏者ではなくこの曲を作った人はどんな人か? というところに興味が行き、彼のレコードを手に入れて聴いたのですが、自分もパーカーをジャズ入門時に聴いていれば、もう少しまともにジャズと向かい合えたのではないかとすら思えた覚えがあります。

チャーリー・パーカーはもちろん、ジャズもそんなに聞いていないという方に、パーカーの凄さをもう少し説明すると、彼はアルト・サックスを吹くのですが、上記で挙げさせていただいたような作曲の才能はもちろんあるのですが、さらに凄いのはメロディを吹いた後にその場その場で即興の演奏をし、その内容が素晴らしいという事があります。彼の現在聴くことのできるCDには全く同じ曲がひたすら続く、知らない人にとっては拷問としか思えない曲の並びがある作品も存在するのですが、なぜ同じ曲が続くかというと、メロディの後の即興演奏の部分が全てのテイクで違うので、聴く人はその違いを楽しむように同じ曲でも別の日・時間に録音した演奏を聴き比べるのです。

こうした即興演奏を楽しむという習慣というのは決して現代だけのものではなく、古くはクラシックの大作曲家として知られているバッハやベートーベン、モーツァルトもやっていたといいます。ただ残念なことに、当時は即興で生まれる音楽を記録する方法が楽譜しかありませんでした。もしその時代に音を録音する機材があったら、今の私たちは大作曲家自らが即興で演奏したものを楽しむことができたのかも知れませんが、録音技術が生まれた時に最盛期を迎えたのがチャーリー・パーカーをはじめとするジャズ演奏家だったのです。

彼の音源は必ずしも状態のいいものばかりではありませんが、かなり音質が悪いものでも彼の音というのは実に魅力的です。その日その場でしか聴くことができなかったものを、録音することによって場所も時間も飛び込えて楽しむことができるということを竹中労さんがチャーリー・パーカーを聴き始めた頃にどこまで考えていたのかはわかりませんが、この体験が後に自身が惚れ込んでしまった島唄の名手の今を録音して広く伝えたいという風になっていったことは間違いないでしょう。

多くの歌い手の中でも特に素晴らしいと言われた嘉手苅林昌さんは、彼がまだ若い時分には存在したと言われる自由恋愛の場「毛遊び(もうあしび)」の席で、ずっと三線を奏でていたと言われています。その時によって違うでしょうが、通り一遍の唄ではなく、その場その場で歌詞や曲を勝手に作って唄い続ける必要があったわけで(そんな状況の中なので歌詞の内容も猥歌になる場合も多分にあります)、それはチャーリー・パーカーの演奏にも同じような部分を見付け出すことができます。

このように即興で作曲し、自分だけの音として聴衆に納得させてしまうには天賦の才能が必要ですが、本物を知っている人は本物を見分けられるだけの眼力を持っているとも言えるのかも知れませんが、しみじみ音楽家としての経歴もない竹中労さんの音楽的な魅力を見付ける眼力は凄いものだと思います。私などはただただこうした才能に憧れるばかりですが、だからこそ、竹中労さんが推す音楽に多くの人が注目するのでしょう。

過激派としての竹中労 その2 竹中労さんはいつまで共産党に?

私がこの文章を書いているのは2016年で、竹中労さんがお亡くなりになってから25年が経っています。もし竹中労さんが同年に生きていたとしたらすでに80を超える高齢になっているので、直接古い時代からの竹中労さんを知っている人は確実に少なくなっています。

そんな中、どのようにして竹中労という人物の業績やその姿を知るかというと、評伝を読むというのがてっとり早いでしょう。過去にいくつもの評伝や人物研究の書物が出ていますが、今回紹介したいのはその中でも、現代書館の「竹中労・無頼の哀しみ」(木村聖哉・著 1999年)を取り上げます。というのもこの本の記述の中に、前回の最後に紹介した「竹中労さんが1980年代の始めまで共産党にいた」という事が書かれているのです。

竹中労・無頼の哀しみ

本の中味を紹介する前に、この木村聖哉氏がどんな人物であるかということを私がわかっている限りの知識で紹介します。この方とは実は私は直接お会いしたことがあって、それは竹中労さんが亡くなってすぐ、「別れの音楽会」という追悼イベントを企画することになり、当時の事務局だった石原優子さんが実行委員会を組む時に、そのメンバーとして招集された方のお一人です。生前の竹中労さんと雑誌「話の特集」で濃密な関係があった方であり、当時の私は下働きのスタッフとして資料の印刷などの雑用を任されていた縁もあって、実行委員会の席でお会いしました。実際にお会いした印象は実に物静かな方でしたが、この評伝を見るとわかりますが、単に竹中労さんに心酔していた当時の私とは全く違い、それなりに竹中労さんへの批判を込めたご意見もお持ちになっていたからこそ、なかなか書くのが難しいと思われる竹中労さんの評伝をお書きになれたのだと思います。

それでは、改めてこの評伝の中にある竹中労さんの共産党の在籍問題について書かれている所について紹介します。

(引用ここから)
先頃ある出版パーティで久しぶりに矢崎泰久さんと会った。その雑談中に「竹中さんはかなり後まで、おそらく八〇年代の初め頃まで共産党にいたらしいよ。だから革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」ど信じられないことを言う。
矢崎さんは話を面白くする癖があるので、”要注意”だが、共産党の某国会議員から直に聞いたそうだから、一笑に付すわけにはいくまい。
(竹中労・無頼の哀しみ 142ページから一部引用)

木村氏は「話の特集」編集長であった矢崎氏の発言を受けて竹中労さんの事を「やはり党派の人だったんだなぁ」と書くものの、本当にずっと後まで共産党にいたのかについての結論を出すことは避けています。周辺の人物に取材してこのような話があったという感じに書いているに過ぎないのですが、先日の山梨で行なわれた竹中労さんの没後25年のトークライブの席上でもこうした話があるということで紹介されていましたし、竹中労さんをよく知る人であればこその関心事であることに変わりはないでしょう。
木村氏がこの件の記述にかかる直前に、彼が東京代々木の共産党本部に出向き、公式に竹中労さんの党籍についてはどうなっているのか調べに行き、統制委員会の担当者に調べてもらったものの竹中労除名の記録はないということを紹介しています。

個人的な感想としては共産党というのはそれほどオープンに対応してくれるところなのかと思いましたが、書かれた内容を文字通りにとらえれば、ずっと共産党に名前が残っていたのかという風に考える人も出てくるわけですね。

ここで、竹中労さんが書く共産党との関わりについて書いておきますと、元々竹中労さんは共産党に入党して活動をしていました。年譜の中からそうした活動の部分を拾っていきますと、昭和22年17才の時に共産党に入党し、離党と復党をくりかえしながら、昭和36年・31才の時に「党を内部から改革しようとして」復党し、党の文化活動にあたります。その頃の目立った活動としては団地の自治会長になったり東映俳優労働組合を支援したり、大阪労音制作「大日本演歌党」(バーブ佐竹主演)を川内康範氏と共同演出したりしています。また、「美空ひばり」や「ビートルズレポート」もここまでの時代の作品です。

年譜の記載に従うと、その後の昭和42年(1967年)の映画・祇園祭のプロデューサーを降りた後の記載に、「日本共産党を「復党見込みなし」の除名。」とあります。ここからもし1980年代前半まで共産党員として活動しているとすると、日本共産党というところは実際は竹中労さんを除名せずに相当寛大に竹中労さんの活動を黙認していたのか、反対に、除名以前の問題だという事で、もう関係ない人だと処理もせずに放っておいたのかどちらかなのではないかと考えられます。竹中労さんが除名と書いている以上、竹中さんサイドから名簿から消せとわざわざ出掛けたこともないでしょうし。そうなるとここで改めて木村氏の本に出てくる矢崎泰久氏の発言を繰り返し検証してみることが必要になるでしょう。というのも、矢崎氏は木村氏に向けて、

「革自連の情報なんかも共産党に筒抜けだった」

と言っていたことになっています。それが真実だとすると、竹中労さんは「革自連」についての情報を共産党に流し、選挙の時に共産党に有利になるような密告をしていたともとられかねませんが、それ以前にそもそも「革自連」って何? と思われる方もいるのではないかと思います。ということで、今回はここまでにして、次回は「革自連」についての話から入り、木村氏の本の中で矢崎氏が言ったとされる「革自連」内部の暴露小説「湿った火薬」の内容が全て真実なのかどうか、後に出た竹中労さんの反論文とともに紹介しながら考えてみたいと思います。

過激派としての竹中労 その1 私の竹中労初体験について

竹中労さんとはどんな事をやった人物かという事を考える中で、まず書いておきたいのは、私自身の竹中労初体験の思い出についてです。今から考えると、この体験の前にもテレビでそのお姿を見ていたとは思うのですが、今回紹介する署名記事を見た時には竹中労という名前と確かに小さい頃に見ていた記憶のあるテレビ番組「全日本歌謡選手権」の審査員という線は結び付きませんでした。あくまで「竹中労」というちょっと変わった名前と、書かれた文章によってのみ印象付けられた竹中労さんの肩書きが「過激派」というのが特に印象に残りました。

リベルタン創刊号

そんな竹中労さんの署名記事が掲載されていたのが、1982年8月に朝日ソノラマから出た雑誌「リベルタン」創刊号で、小池重明氏と升田幸三氏の将棋対局が目玉企画になっていたこともあり、将棋ファンの方はご存知かも知れません(この対局の様子については後に単行本や文庫になっています)。また坂本龍一氏と竹田賢一氏の対談も興味深いものでした。ただ、第2号が結局出ないまま終わってしまったのが残念でした。

なぜこんなことになってしまったのか、今となってはうかがい知ることはできませんが、創刊号の編集後記に編集長が「将棋に夢中になっているうちにいろんなものが入り込んでしまった」と嘆いていて、その一つに竹中労さんのコラムがあったのではないかと思えたりするのです。

というのも竹中労さん自身がコラムの中で、「そら、過激派の本音が出た」と、当時の自身の世間からの評判について自虐的に書いていますし、さらに同じ号にはあの鈴木邦男氏が新右翼団体である一水会の機関紙である「レコンキスタ」の紹介と称して、あからさまに若者よ民族派に来たれというようなアジ文をそのまま載せていたりしました。

1980年代の「過激派」というのは、当時の共産党のやり方に満足せず、より先鋭的に国内外での革命を目指す集団だとしての個人的な認識があり、一部の人から実際にテロを行ない世間を騒がせた過激派の親玉だと思われていた竹中労さんが、まともな媒体に文章を載せることは困難だったと思われます。そんな中、一応は名の通ったメジャーな出版社が出した雑誌に当時の竹中労さんの文章が載ることは、たまたまだっととは言え、自分の手に届いたというのはラッキーだったとしか言えません。

では実際、「リベルタン」に掲載された竹中労さんのコラムはどういう内容だったかと言いますと、過激な事は過激ではありましたが、当時全くの思想的に無垢だった私自身の心にも響いてくる反核運動にかこつけた当時の「左翼」に向けての批判でした(以下の引用は全て1982年8月、朝日ソノラマ「リベルタン」掲載の竹中労「異議あり!」からのものです)。

(ここから引用)
……「沖縄を返せ」「安保反対」「米帝は日中人民共同の敵」えとせとら・etc、シュプレヒコールはくりかえされ風化して、状況は変らない。いや確実に悪くなっていく。
(中略)
セーノと声をそろえりゃ世の中変るというおめでたい幻想、かくて社共統一・民主連合の亡霊はまたしてもよみがえる……
(引用ここまで)

この文章を改めて2016年という段階で読んでみると、ネットにあふれるいわゆる「ネトウヨ」が左翼を批判するロジックと同じように感じることができます。当時は、昔からの反対を連呼することに終始する左翼的活動に異を唱える知識人はそうそういなかったと思います。さらに、反核運動はどこに向かうべきかという点について、こんな指摘をしています。

(ここから引用)
言わずもがな、反核運動は具体的に反原発の闘争となる。何千万・億の署名よりも、一つの原子力発電所を破壊した方が有効である。
(引用ここまで)

この文の後で、「そら、過激派の本音が出た」というフレーズに続くのですが、当時は反核と反原発とは切り離した運動がされていたように思います。なぜなら、アニメ「鉄腕アトム」について、その存在自体を糾弾する人など皆無で、原子力を人間がコントロールして安全に使うことができるという事が広く信じられていた時代なのです。

そんな時代背景により、この発言をもって竹中労さんを「過激派だ」と一蹴してしまう人がいたからこそ、当時の竹中労さんは孤立して書く場を失なっていったと言えるわけですが、当時は画期的だと思った竹中労さんの考えというのも、まだまだその後の現実を見ていく中では甘かったと言わざるを得ません。もっとも、竹中労さんもさすがにメルトダウンを伴う大事故が起きれば日本の為政者や電力会社も原子力発電を止めるだろうと考えていたのでしょうが、原発再稼働どころか核武装まで真面目に考えている人たちが世間から大いなる支持を受けているわけですから、世の中が竹中労さんの考え以上に変わってきてしまっているということも言えるかと思います。

そんな中、このコラムの最後に、竹中労さん自らが「過激派」と呼ばれることになったきっかけについて記しています。

(引用ここから)
六五年、原爆スラムのルポルタージュを書いた。七〇年、朝鮮人被爆者を取材して一冊の本を編み、一本の記録映画を制作した(倭奴【ウエノム】へ――在韓被爆者無告の二十六年/日新報道&日本ドキュメンタリスト・ユニオン)。
この年から「左翼」にとっての異端と私は呼ばれ、過激派の黒幕と目されるようになった。
(引用ここまで)

さらにこのコラムの中で竹中労さんは、当時の革新勢力の人たちの事を”「革新を保守する」者”とも揶揄していますが、正に今、そうした人たちの長きに渡る行動が全ての左向きの人の行動を批判する中で「ネトウヨ」の攻撃基準になっているように私には思えて仕方ないのです。当時の左翼の方の中では、異端として切リ捨てたケースが多かったかも知れない竹中労さんの考えをもう少し真摯にくみ取っていれば、ここまでネトウヨから左と言うだけで集中砲火を受けるような状況にはならなかったのではと私には思えるのですが。

と、ここまで書いてきましたが、こうした竹中労さんの筆によるコラムが書かれていた80年代の初め頃まで、実は竹中労さんは日本共産党にいたという話があります。となると、今回紹介した文章はどう捉えた方がいいのか、全くわけがわからなくなってしまいます。今回はここまでにして、次回は竹中労さんがいつまで共産党にいて、党のために活動をしていたのかということについて、書物をひもときながら考えていきたいと思っています。